見知らぬ過去の回想

 自分が生れるちょっと前のことは、それが歴史になっているわけでもまた実感できるものでもなく、突然それが現れてくると妙な手触りを残してくれるものです。両親をはじめその時代を生きた人などたくさん知っているのですが、それは自分とは微妙に縁があるようなないような…


 実家に帰ってSFを読んでいたと書きましたが、そのうちの一冊、ジュディス・メリル編『SFベスト・オブ・ザ・ベスト 上』創元推理文庫の序文(大谷圭二訳)に、むしろその短編集の内容よりも惹きつけられ、奇妙な感触を与えられたのでした。それは近過去というだけでなく、その時代のアメリカ人の視点であるという意味で二重のベール越しにみえる世界です。

 1953年は、アイゼンハワーが合衆国大統領になり、朝鮮戦争が終わり、マッカーシーが上院国内治安分科会の委員長になった年だった。スターリンが亡くなった。ペプチド分子がはじめて人工的に合成された。“水爆の父”オッペンハイマー博士が、機密保持に難のある人物として、公職から追放された。マサチューセッツ州選出の若手上院議員ジョン・F・ケネディが、社交界の花ジャクリーン・ブーヴィアと結婚した。ディラン・トマスが亡くなった。ジェイムズ・ボールドウィンが最初の長編を発表した。ウィリアム・バロウズが『ジャンキー』を書いた。ヘミングウェイが『老人と海』でピュリッツァー賞を受けた。

 アイゼンハワーはD-DAYの方で名前を知っていますが*1アメリカ大統領としてはほとんど存じません。私が生れる前にケネディは暗殺されましたし、覚えている大統領はニクソンあたりからでしょうか…。
 朝鮮戦争が終わったと単純に書いているのは、やはり本国から遠い世界のことだからでしょうか。
 マッカーシーの名からは「マッカーシズム*2」を想起しますが、そのご本人のイメージはないですね。
 ペプチド分子…そうですか(汗
 スターリンが何百万人殺していても、結局この一行になってしまうのです「スターリンが死んだ」と。
 ジャクリーン夫人の本名は知りませんでした。造船王オナシスと再婚したんですよね。
 ディラン・トマス*3の名はおそらくここで初めて知ったかも。
 ジェイムズ・ボールドウィン*4では"Another Country"(1962)の題名ぐらいでしょうか(邦題『もう一つの国』)。
 ウィリアム・バロウズ*5についてもさっぱりです。バロウズと言えばエドガー・ライス・バロウズ*6でしょう(笑
 ここに挙げられた文学関係の名前で日本で今なお知られているのはヘミングウェイぐらいでしょう。私もこの人の作品しか読んでいないと思います。

 1954年は、公立学校の人種差別に対する最高裁違憲判決、ディエンビエンフー、そして東南アジア条約機構結成の年。ウィンストン・チャーチルが首相をやめて引退した。マッカーシーが上院で問責決議を受けた。ソ連が水爆実験を行なった。最初の平和目的の原子力発電所が、ペンシルヴェニア州シッピングポートで運転をはじめた。オールダス・ハックスリーが、メスカリン服用の体験を書いた『知覚の扉』を出版した。

 ここらの時代からアメリカで公民権運動が盛んになるわけですが、最初に聞いたときの驚きは忘れていません。私が生れるほんの少し前、第二次世界大戦が終わって10年も20年もあのアメリカで「人種差別」が普通に行われていたとは!アメリカって何なのか、これでわからなくなった覚えがあります。
 このディエンビエンフーの戦い*7は「フランス外人部隊」という名前とともに少しだけ知っています。でも結局ベトナムあたりが戦乱を抜けるのにこの後20年近くかかるとは。
 東南アジア条約機構(SEATO)についてはほとんど知りませんし、重要なものではなかったと思います。
 スターリンの死に続きチャーチルの引退ですか…WW2の頃の主役がそろそろ消えていく頃だったんですね。
 ソ連の水爆実験に最初の商用原発。こんなに新しいものだったのかという印象です。
 ハクスリーも私はSF?がらみ("Brave New World" 邦題『すばらしき新世界』)で知っているぐらいでしたが、この当時は薬品の使用>深層心理の探求とそれによる文学の可能性が信じられていたのでしょう。今考えれば奇妙な感じがします。メスカリンは確かある種のサボテンの成分でしたね。『ペヨーテ・ハント』に出てきたと思います。

 1955年には、小児マヒ予防にソーク・ワクチンがはじめて使用された。アメリカ労働総同盟産業別労働組合会議が合併した。南部で<フリーダム・ライダーズ>が運動をはじめた。DNAとRNAが合成された。『熱いトタン屋根の上の猫』が、演劇部門のピュリッツァー賞を受けた。国際地球観測年に打ち上げられる人工衛星について、ワシントンから最初の公式発表があったが、だれもあまり関心を示さなかった。実験室の中で反陽子が作られた。

 このあたりの医学・科学分野での進展は現在へ直につながっているのでしょう。でもおそらく当時の人は、それらの意味をあまり考えてみることがなかったのかも。
 『熱いトタン屋根の上の猫』*8は同名の映画(エリザベス・テーラーポール・ニューマン主演)のことは知っておりましたが未見です。ヨロメキ映画でしょうか(笑
 また申しますが、フリーダム・ライダーズ*9の話がこの時点で出てくるのが驚きなのです。それこそ昭和30年の時点で、黒人専用席などを設けているバスが「先進国アメリカ」「民主主義のアメリカ」にあったなどというのは、私にとってスキャンダルでしかありませんでしたね。これは東部の名門大のお坊ちゃんたちが南部へ乗り込んでいったものだそうですが、この正義感が後の新左翼運動やベトナム反戦運動へとつながるのですか…。

 1956年。ケネディ民主党マサチューセッツ州)が、副大統領候補の指名を受けられなかった。フィデル・カストロがオリエンテ州に上陸し、ハバナへの進軍を開始した。アメリカがビキニ環礁で水爆の空中実験を行なった。ジェム首相がベトナムの統一選挙を拒否した。オルグレンの『野生のほとり』とボールドウィンの『ジョヴァンニの部屋』が出た。『八十日間世界一周』がワイドスクリーンの映像を世界に広めた。『反抗的人間』がカミュノーベル賞をもたらした。

 キューバ革命*10の開始ですね。私は『ゴッド・ファーザーⅡ』のイメージで見てしまいますが…
 ビキニの名称がこれで始まるとは皮肉です。
 オルグレンの『野生のほとり』…全く存じません。ボールドウィン(先述)の『ジョヴァンニの部屋』*11も読んでいませんね。
 『八十日間世界一周』は見ました。また恥を言いますと『反抗的人間』も未読です。

 1957年。ケルアックの『路上』とケネディの『勇気ある人々』。最初のリトル・ロック暴動。パリティ保存の原理と、セービンの生ワクチン。オニールの『長い夜への旅路』。ガーナの独立。そして十月には−スプートニク一号。
 1958年。最初の原子力潜水艦進水。アラスカが合衆国の一州となる。ダイナーズ・クラブ創立。宇宙競争はじまる。
 1959年。キューバでのカストロの勝利。大学生のあいだで、電話ボックスに何人はいれるかを比べる遊びが流行。『ロリータ』発禁、『チャタレー』出版。最初のソ連月ロケット。アメリカのエーブル=ベーカー・ロケット。

 ケルアックの『路上』*12もほとんど聞いたことがありませんでした。ケネディの『勇気ある人々』*13については名前だけ…。
 ガーナの独立、アラスカ州の誕生、また最初の原潜もこんな年だとは…。
 スプートニク・ショック*14から宇宙(開発)競争が始まっていくことについては聞いたことがあります。確かこの流れで日本の高校の理科科目に「地学」が加わったということも…。
 『ロリータ』は新しい方の映画だけ。それだけでも言えるのは、ロリータ趣味というのは小悪魔的な女の子に振り回される(されたい)中年男のものであって、弱い女の子を拉致したり暴行したりという行為に「ロリータ」の名を冠するのは「間違い」だということでしょう。
 『チャタレー夫人の恋人』は翻訳を読みましたが、今ひとつでした。近代の行き詰まり打開の手段として「性」に関してあまりにも大きな幻想があったような気がします。

 この本に含まれる『年刊ベスト』の最後の集が出た1960年には、すでに二十あまりの人工衛星が打ち上げられ、レストランでの黒人差別に抗議する坐りこみが始まり、『ライ麦畑でつかまえて』が大学生のあいだでブームを呼び、ハワイが合衆国五十番目の州になった。エリザベス・テイラーがエディ・フィッシャーとの結婚でついに幸福を見出し、ジョン・F・ケネディーがリチャード・ニクソンを向こうにまわして、大統領選挙のキャンペーンを張っていた。
 ビートルズボブ・ディランやディック・グレゴリ−の名は、まだまったく−といっていいほど−知られていなかった。マルコムXも、ハーレムの外ではほとんど知られていない存在だった。マッカーシーは死んだが、アメリカ国民の心に根をおろしたらしいマッカーシズムは死ななかった。科学教育に大きな関心が集まり、代わりに一般教養が学校のカリキュラムから削られた。フルシチョフがディズニーランドの見学をことわり、そしてアメリカ人はソ連よりも中国に恐れをいだきはじめた。
 こうした時代、身近でありながらなんとなく遠くなってしまった時代に、これらの作品は書かれ、そして発表されたのである。

 なんとも時代を感じますし、アメリカが遠くも、またその後の日本に流行などの面で影響したというところでは近くも感じます。とてもアンビヴァレントな感触です。知っている風景に似ているけど見知らぬ街路を歩いている…といった感覚でしょうか?


 これだけは日記に書こうと思ってメモしてきました。ただ、調べてわかったのですがメリルの『SFベスト・オブ・ザ・ベスト』は再版されていましたね。ちょっとがっかりです(笑) でもこのおもしろさは確かにあると思いましたので、せっかくですからここに記しておきます。

*1:第二次世界大戦中のヨーロッパの連合軍最高司令官

*2:熱狂的な赤狩り共産主義者攻撃)

*3:イギリスの詩人・短編作家・劇作家。独特のイメージ豊かな言葉をもちい、自然の美しさをうたったことで知られる。シュルレアリスムと個人的な幻想の要素を持つ詩が特徴

*4:現代アメリカ文学を代表する黒人作家の一人

*5:同性愛者。麻薬中毒者。ビート・ジェネレーション。1952年、妻ジョーンを射殺。カットアップ…新聞や雑誌や書物から適当なセンテンスやフレーズやワードを切り取って、これを前後左右縦横呑吐に並べていく“言語上のカット&ペースト”…の手法を用いた文学作品を書いた

*6:「ターザン」シリーズ。「火星」シリーズ。「地底世界」シリーズなどの作者。

*7:第1次インドシナ戦争末期の1954年3月から5月にかけて戦われた、同戦争中最大で最後の戦い。フランス軍(その主力は外人部隊)の敗北により、ジュネーブ会議で仏領インドシナというものが消滅した

*8:熱いトタン屋根の上にいる猫のように、裕福な家庭の妻が欲求不満でいつもイライラしている心理的葛藤を描くテネシー・ウイリアムズの戯曲

*9:乗り物の人種差別撤廃運動家

*10:カストロらは1956年12月にキューバに上陸。政府軍を相手に2年余りのゲリラ闘争を行った末、ついに1959年1月1日バティスタを国外逃亡に追い込み革命政権が誕生

*11:パリに遊学中のアメリカ青年のデイヴィッドはふとしたことから同性愛者の世界に踏み込み、ジョヴァンニと知りあう。2人は安アパート《ジョヴァンニの部屋20》で同棲生活を営む

*12:ビートのヒーローたちのドキュメンタリー小説

*13:ピューリツァー賞受賞。ゴーストライターの黒い噂あり

*14:世界初の人工衛星ソ連によって打ち上げられてアメリカは先進技術国としてのプライドを傷つけられ、そのソ連の衛星が自分たちの頭上を飛んでいるという象徴的な出来事にショックを受けた