悪法もまた法

 「悪法もまた法」という言い方は、形式主義的に法を捉える見方のように思われます。しかしこの言い方の逆、「悪法は法でない」という見方は果たして成り立つのでしょうか?単純にそれはあり得ない(と申しますか語義矛盾の)ように思えてしまいます。
 逆が言えないのならば「悪法もまた法である」という言い方は、単に同語反復的な意味合い、法=法という(当たり前の)ことを含意するだけで、積極的な意味がないことにならないでしょうか?
 それでもこの言い方は長く残ってきているのですから、何か「悪法は法でない」という考え方が存在できるようにも思えます。


 「悪法は法ではない」という言い方で一つ考えられるかなと思いましたのは、この「法」に「自然法」のように先験的な法という意味合いを持たせる場合です。つまり「法」というのが、何か普遍的な「正義」を表現するものであると認識する場合でしょうか。
 ただ私の感覚から言って、あくまで法は実定法として明文化されたもの、そして(不完全な)人間によって作られたものとしか思えませんので、どうにも上の考え方は座りが悪く思われます。
 物理「法」則の支配と同じような意味での「法」律を考えることはおかしいのではないでしょうか。あくまでもその「法」律は、時間空間的に一定の範囲に区切られた場に対して人間が「設定する」ものでしかないはずです。いわばそれはゲームのルールです。


 もとより「神」が定めたルールというなら、正義という概念をそのまま示すような「法体系」があっても良いでしょう。しかしそれに類するような「法=正義」という筋をストレートに信ずることは、もはやある種の信仰の域に入っているような感じを受けます。そして私にはそういう信心がありません(笑


 法は、理念としての正義に対してはあくまで漸近的に向かわせることができるのみで、結局そこに辿りつけないかもしれないものだと思いますので、「悪法も法」などと聞いても私は「だから何?」という感想しか持てないのです…。