東浩紀氏の『「嫌韓流」の自己満足』について

 東氏が「嫌韓」についてネガティブに書かれているということを小耳に挟みましたので、お昼に本屋に行って『論座朝日新聞社、10月号を購入してきました。論座を買うのは初めてでした(笑。 一読後(短いエッセイですのですぐ読めます)の感想を書かせていただきたいと思います。


 東氏は本当は「嫌韓」のことを知らないのではないでしょうか? いえ、ネットによく来られるようにも伺っていますのでそれを見聞きしていないはずはないとすると、知ろうとしなかったのではないでしょうか?
 ここで語られる「嫌韓」は、まるでその字面で一本エッセイを書き上げただけのように思えます。的自体があやふやで、しかも皮相すぎる「評論」です。これを読んで何か知った気になれるのは、ネットを知らない人か、もともと「嫌韓」を厨と決め付けている類の人ではないかと感じました。

 「嫌韓」という言葉をご存じだろうか。読んで字のごとく、韓国・朝鮮に対する強い嫌悪のことである。日本のネットでは、嫌韓の空気がきわめて強い。そのなかには、「嫌韓厨」と呼ばれる困った人々もいる。彼らは、2ちゃんねるの韓国関連のスレッドに現れて、韓国・北朝鮮を批判し中傷する発言を繰り返す。

 これが冒頭の文です。ここでは一見「嫌韓」と「嫌韓厨」を切り分けているように見えますが、その後の文章では両者はまったく一緒くたで語られます(たとえば「嫌韓の担い手」という一語によって)。またこの後に紹介される山野車輪の『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)も、論じる対象としては一つの枠になっています。紙幅がないとはいえ杜撰ではないでしょうか? なによりすべての「嫌韓」者が韓国・北朝鮮に対して中傷を行っていると読めるような議論では、彼が「嫌韓」の何を見ているのかと問いたくもなります。

 公平を期すために言えば、そこには説得力のある議論もある。しかし、それらの議論は、日韓関係の改善に繋がる積極的な提案に結びつくわけではない。結局残るのは、「歴史問題にしても竹島にしても、韓国人はどうしてこう話がわからないんだ、まあバカだからしょうがねえか」という諦め、というより冷笑だけである(最後ではとってつけたように「日韓友好」が語られるが、いかにも嘘くさい)。

 これが東氏の『マンガ嫌韓流』評価なのですが、ちょっと苦しい批判ですね。「日韓関係の改善に繋がる積極的な提案」ではない「日韓本」など世の中に溢れています。またここでは、きちんと議論して「より正しい」(と思われる)知識を得ることによって日韓関係を正常なものにしようと考えている「嫌韓」の側の一番の主張が捉えられていません。むしろそこでは、彌縫的に上っ面だけ合わせて「日韓関係を改善」するような「いかにも嘘くさい」友好的態度が意図的に廃されているのであって、つまりは議論を戦わせて歴史認識の最初から検討し、両者の関係を再構築しようというラジカルに誠実な態度があると私は捉えています。
 そして上記で触れられる諦観や冷笑的な態度というのは、誠実に殴り合ってくれない韓国側に対して、ある種の局面で出てくるお決まりの反応でもあるわけですが、逆にそれに終始するようなら誰も「厨」などとは呼ばれるはずがありません。


 またこれに続く部分では

 嫌韓のここに本質が現れている。かつて社会学者の北田暁大は、ネットを舞台とした擬似ナショナリズムの本質は、他人の価値観を「嗤」い、そのことで自らの優位性を保とうとするロマンティシズムにあると分析した。『マンガ嫌韓流』も同じである。


 おそらく嫌韓の担い手の多くは、とりわけ嫌韓厨は、日本の将来を具体的に憂いているわけではない。彼らはむしろ、韓国人の愚かさを証明し、日本人の優位を確認したいだけなのである。『マンガ嫌韓流』がディベートの場面を数多く挿入しているのは、そのためだ。しかもその作法は、ネットでの「ツッコミ」に近い。だから彼らは、韓国人の歴史認識や外交姿勢を批判するだけではなく、その奇異な発言や行動を収集し、「あいつらはこんなにバカだ、困ったもんだ」と「ネタ」にする。

 稿を改めないときちんとした批判はしにくいのですが、命題形式になっている上の一節は「偽」であると私は考えます。
 そして「他人の価値観を嗤う」とか「日本人の優位を確認する」とかいう東氏が想像した「嫌韓」の動機じみたものは、「嫌韓」の全範疇を的確に捉えてはいません。もちろんそういう卑小な動機で嫌韓が語られる場合もあるでしょう。しかしその一部を以って全体の批判にすり変えるというのは褒められたものではありません。
 ネタ云々の話にしても同じです。「嫌韓」すべてがネタ探しであろうはずがありません。もしまじめにこう受けとられているならば、この方はネットで何をみていたのでしょう? まじめに「嫌韓」を知ろうとしなかったのではないかという疑念が湧きます。
 また「嫌韓厨は、日本の将来を具体的に憂いているわけではない」という部分ですが、東氏は「日本の将来を憂えている」人の話でなければ真面目に聞く価値がないという立場の方なのですか? 私は「嫌韓」の行為の中にすら「日本のことを考える萌芽」があるという考えを持っていますが、このフレーズが言われるところの「擬似ナショナリズム」を茶化した言い方だとしても、あまりに独りよがりではないでしょうか? どうしてそう決め付けられるのかお伺いしたいものです…。


 何か長くなってしまいましたし、頭に血がのぼってきた気配もありますので、それを冷やす意味でも一旦ここでやめます。この人の本は確か新書で一冊読んだことがあると記憶していますが、こういう杜撰な(というか誤解か悪意があるような)議論をなさる方とは思いませんでした…。

東氏のエッセイ

 こちらの掲示板で語られていますね。でも…全文を持ってくるのはまずいんじゃないかと…。