生命の合目的性

 わりに最近、Intelligent Design(過去日記参照)がらみでいくつかの議論を目にすることがありました。進化というものが「自然選択(淘汰)」によってなされたという側と、単なるランダムな選択を超えた「目的性」をそこに考えてもよいのではないかとする側との議論です。上記IDは後者の立場ですが、それに対する批判は専ら、意志とか目的を恣意的に理論に持ち込むのは非科学的だという点に終始したように私には思われました。


 実は古典古代以来、上の議論と対象のレベルこそ違え、似たような意見の対立はあったのです。それは生命現象や生物体の合目的性についての議論です。

 身体のさまざまな部分がすべて、あたかも目的のために生じたかのような結果になっている場合は、そのような生物は、身体の諸部分がひとりでに都合よく組み立てられたことによって生き残ったわけであり、これに反してそのようにできていない生物は、滅び去ったし現に滅びつつある。

 これは、アリストテレスが『自然学』で引用するエンペドクレスの説明法です。この変異選択方式の説明は、驚くほど進化論の発想の先取りになっているように見えます。
 しかしアリストテレスはこれを批判します。

 神と自然の仕事は完全であり、したがって不足しているもの余分なものは存在しないし、目的なく存在しているものもない。

 これを補強するのが彼の自然観です。

 一般的にいって技術とは、一方においては、自然が完成し得ないものを仕上げるのであり、他方においては自然をまねるものである。だから技術による存在が目的をもつなら、自然による存在もまたそうであることは明らかである。なぜなら技術による存在においても、その過程のなかでより後の段階がより先の段階に対してもっている関係は同様であるから。

 少々わかりにくいのですが、アリストテレスにとっては自然全体が合目的性を持つ存在でした。そして人間がその自然を模して行動する以上、人間が目的をもって行動するならば自然も同じように目的を持つだろうという理解がなされていたのです。(これはある種擬人的な自然観といえるでしょう)
 ですから彼の議論は、身体諸器官の構造と機能は決して偶発的な現象ではなく、したがってそこには何らかの目的が存在するはずだ、という具合に一種の転倒を含むものだったと言えるかもしれません。
 この適合形成方式の説明では、どのような因果的機構において生物がより来たったかという「発生と展開」についての問いは存在しませんので、当然進化論的発想はでてこないのだと思います。


 自然の合目的性を信じるアリストテレスの公理は、その後の自然学を長く主導します。そしてその擬人的自然観は、どうしても目的論的説明にとどまってしまうものであり、合目的性の分析は行われなくなります。また目的論的説明とは、問いを幾重にもつきつめれば何らかの超越的存在による保証を必要とするものなのです。


 近現代においては、「神や神的な自然」がもともと擬人的に形成されたものではないかという根本的な疑念が提示されていますから、この目的論的説明が支配的になることは難しい状況にあります。しかしそれでも、生命現象の奇跡的な合目的性は研究すればするだけ明らかになるようでもあり、生物学・生理学の研究者は未だ生命現象の合目的性を因果的に説明し尽くすことはできずにいます。
 むしろ「神や神的な自然」に頼るのをやめ、目的論的説明を捨ててしまった以上、どうしても彼らは生命現象の機構を説明し尽くす方向へ進まざるを得なくなっているのだと思います。そのように進むことができなくなってしまった時、再びそこに目的論が入ってしまうことを怖れているかのように…。


 「なぜ心臓は運動するのですか?」という問いに「身体の各部に血液を配分するため」という答えを用意するなら、それは実に目的論的回答です。私は「アクチン・フィラメントがミオシン・フィラメントに滑り込むから」という説明が無条件に優れているとは思いません。どこかで私たちは、目的論的説明の部分も求めているのではないでしょうか。それはどこか思考停止になっているのかもしれませんが、少なくとも強迫的に問うていくことを強いられる状態よりも平安をもたらしてくれるのではないかと思うのです(笑)。

 われわれがこの(ダーウィンの)説にたよる場合は、水におぼれて他に救われるすべのない人が、彼の身体をかろうじて水上に保っている板切れにしがみついているときの思いでつねにありたい。板切れと沈没といずれをとるかという場合には、優越は板切れの側に決定されるのである。
 (19世紀の生理学者デュ・ボア・レモンの言葉)