補遺の補遺

 昨日の日記にいただいたコメントにお答えする形で少し書かせていただきます。言ったことに責任をとりますと、昨日投げた問いかけは決してレトリックではなく、本気で自分で考えていることでもあることをはじめに申しておきます。


 今の年齢になるまでにどこか私には諦観のようなものも生れてきておりまして、おそらく何でもかんでも理性で解決はできるものではないだろうなと考えています。たとえば「いじめ」を考えてみても、いじめをする者に「いじめはいけない」といくら言葉で言ってもその根絶はできないんじゃないかと思うのです。できることは、いじめがあればそれにできるだけ早く気付き、いじめられた人を傷口が浅いうちにフォローし、いじめた者に相応のペナルティーを払わせかつ成長させるということぐらいではないかと…。
 レベルは異なりますが、差別問題にしてもどうやっても消し去ることはできないんじゃないかと思っているのですね。もしそれがこころの問題であるならば。それに他人様の心の中をいじるということには抵抗がありますし、無理に抑えることは(それが負の感情であれ)できないかもしれないと思います。結局本人の気付きに任せるしかない部分はどうしてもあるんです。
 ただその問題を社会制度の側面や社会的雰囲気の醸成として捉えるならば確実にできること、やるべきことはあると考えます。それはもちろんやればいい。
 そしてその方法論の一つとして「風化」が適当ならば、私はそれを適用すべきではないかとも思うのです。忘れてしまうということに最も抵抗があるのは、やられた側の痛みを考える時でしょう。しかし問責が有効な局面には限度があるはずです。少なくともそれを孫子の代まで伝えずに置かないというのは行き過ぎでしょう。適当な例かどうかわかりませんが、原爆投下にははっきり人種差別的側面があったと個人的に思えますが、それで私は今のアメリカをどうのという気にはなりません。(これには私たちの暮らし向きが良くなっているという好条件があるとは思いますが)


 百年の恨みというものを私はあまり信じておりません。百年も経てば私たちはたいてい死んでいます。生きているうちは自分が世界の中心に思えるかもしれませんが、百年もすれば世界が私を忘れているでしょう。それは仕方のないことです。それを考えれば、長い目で見た諦観を被害者も持てないかと思います。
 問責の連鎖、責め続けることは実は問題の解決にふさわしくないのではないかという考えを持ち始めているのですね。そしてacoyoさんには「直観」でものを言うなと叱られましたが、これもまた直観です。それがいけないと言われればそれまでなのですが、知識を持った方が説得的に語られてそれに納得することがなければ、私は私の直観をそのまま持ち続けるんじゃないかと…。


 ponta_noさん初めまして。参考になります。おっしゃる一般的な差別糾弾側のレトリックも知る部分はありました。そしておそらくそれに納得していないので、昨日は問いかけを投げてみたのです。知る側が知らない側を下にみる傾向…というものは意識したことがありませんでした。ただ言われてみればというところはありますね。
 あとリニアな思考にあてはめているんじゃないかというご指摘もです。


>「無自覚」こそが差別の意図しない再生産につながる
 という言葉が、状況把握に用いられるならある程度納得もするんですが、それが問責になると私にはどうも受け入れられないんですね。それは道義的責任の範疇でしょうし、それは自分で引き受ける気にならなければ意味をなさないものですから…。


 特定の人に利用される危険性、というのはちょっとわかりませんでした。お時間があればいつでもお教えいただければと思います。


 ちょっと不十分かもしれないのですが、今日の気力はここで尽きました。なるべく率直に書いたつもりではありますが、気付かぬ欠陥や思い込みもあるかもしれません。お二人に限らず、突込みをいれてくださる方は歓迎いたします。とりあえずここまでで…