弱者について

 貧富の格差という言い方がありますが、ここでは実は格差だけが実際に存在して見えるものであり、貧とか富とかいうものはほとんど相対的に言われるものではないかと思います。 絶対的な貧があるとしたら、それは無一文・ゼロということではなくて「死」という場所にあるものでしょう。また絶対的な富というものは、単に私たちの想像力が限界をむかえた場所ということでしかないかもしれません。


 どこかの通貨に換算して同額の収入があるとしても、それが国によって意味するところは違います。額によっては貧にも富にもなり得るゾーンもあるでしょう。生きていくために必要なお金が多くかかる国と少なくて済む国の人を並べて、たとえばドル換算で同収入(絶対値)の人のどちらが富んでいるかを言うのはナンセンスですし、同じメジャーで量れる同じ国の人でも自分を貧の範疇に入れるかどうか富に入れるかどうかには主観的な幅があります。日本でよく言われた中流意識などというものも、結局自分は貧乏でも金持ちでもないという認識を言ったものにすぎず、絶対的な中流というものはありません。
 それでもやはり貧困という言葉で心に訴えるものがあるのは、それが生命を維持することに困難さを感じるというレベルで語られるからでしょう。そういう意味での貧困は「ほおっておけないでしょ」と言われると、そうですと答えざるを得ないと思います。まさにそれが「井戸に落ちた子」を助ける惻隠の情というものですから。


 さてその貧困をも含む「弱者」というものですが、貧富に無条件で絶対的なものを感じられなかったように、基本的には強者−弱者も相対的なものだと考えます。もちろん貧困に放置しかねるレベルがあったように、ここにもそのままにできないもの、もしかしたら生命に関わるようなレベルのものがあるでしょう。ですがすべてそういうものだとは思いません。一般的な「弱者」という言い方があるにせよ、それについて語るのは個々別々の具体例にしなければどう捉えどう対処すべきかは決定しないと考えます。


 あるサイトで「高齢者,子ども,女性,障害者,外国人など社会的弱者」という表現がありました。これもまた具体的なようで実は具体性に欠ける表現です。一般論としてはわかりますが、これらのカテゴリーの人をまとめて何々すべきという話に結びつけるのはあまりに乱暴だと思われませんか? もちろん個々の枠内にいる人も千差万別ですし、クロスカテゴリーに考えて高齢者と外国人はどちらが弱者か、また女性の障害者と外国人の高齢者はどちらを優先すべきかなどという話が成り立つはずもありません。すべて一つ一つの具体的な事例の場で判断し対応すべきものでしょう。そしてそれではじめて見えてくる「弱者」の場面も多くあるはずです。抽象的な「弱者」には入らずに、それでも弱き者として助けが求められる具体例だって多くあるはずですから。


 そしてまた他者を「弱者」と認める人たちをすべて「強者」の側に入れる議論も成り立ち難いですし、そこにも度合いの違いがあるのは明白です。今回の選挙戦で「小泉政策は弱者切捨てである」というような言葉も多く耳にしました。それぞれの方がそれぞれの思いで発言なさっているのでしょうし、あるいは異なるいくつかの具体例を頭にイメージされていたのかと思いますが、それをうまく伝えている方は決して多くはありませんでした。
 一つのサイトでは「障害者自立支援法案」のイカサマ性を訴え、小泉政権により「法律が施行されれば、すぐにでも、今の生活が根底からひっくり返される重度障害者が日本中にいるのだ」とおっしゃっていましたが、これは具体例として一つ納得できるものでした。ですがこのサイトの方の話は唐突にイラクの話に移り、そして小泉政権は人を殺す政権だという性急な結論に移ります。これは人を納得させる話では全くありません。小泉氏を選択する行為がそのヒトゴロシに加担する行為だと言われましても、自己責任を標榜するその新自由主義的政策というものがヒトゴロシであるという納得できる説明がなければ無意味な発言ではないかと…。もちろん「障害者自立支援法案」で本当に困窮する方がいるという話は説得的ですが、残念ながらあまりに飛躍と説明不足が多いアジテーションだなとしか思えませんでした。


 話を弱者−強者という捉え方に戻してみても、弱者を前にした強者の側がすべきは何かということに絶対の指針などありません。それは「強者が弱者を食い物にするのはいけない」ということでしょうか? または「強者が弱者のことを無視するのはいけない」ということでしょうか?必要な時は助けの手をのばすべきという意味で。 もしくはさらに進んで「強者が弱者を助けないのは悪いこと」ということなのでしょうか?
 それぞれの倫理観は少しずつ異なり、ハードルも違います。具体的な事例においてどれを選べばいいかが決まっているなどとは私には思えません。(社会的)弱者の存在を認めたとしても、対応にはいろいろあり得るのです。「弱者切捨て」という一言が一義的に決まっているわけでもないのです。


 相対的にではありますが、私は現在社会的弱者ではないと自認しています。だから具体的な局面においては果たすべき義務も考え、行動することもあります。それは各自が考えることだと思っています。
 「弱者」という語を錦の御旗にするのは、もしそうしている方がいれば止めた方が良いでしょう。それはあまりにもはやく思考を停止しているだけのようにも見えます。個別のできるだけ具体的な話をしましょう。さもないと逆に単なる反発を招くことにもなり、助けを求める人を結果として「ほおっておく」ことにつながってしまうことになりかねませんから…。