女王の教室はネオリベラリズム?

 いくつかのブログで「女王の教室」がうけたのは時代の雰囲気を捉えたからだという論がありましたが、もっともだと思いました。いずれの世のドラマでも、世相や時代の雰囲気を掴んでいなければヒットするはずはありません。NHKの連ドラでリメイクの「君の名は」がこけたのはまだ記憶にあります。鈴木京香は確かにあの当時洗練されていませんでしたが、何より時代の求めている内容では無かったのが一番の不人気の原因だったと思います。


 しかし時代の雰囲気をまだ多くの人が名称を聞いてもピンとこないネオリベラリズムに比定して、自分の考えるその新保守主義の危うさについて語る方がいるのにはちょっとどうかなと思うところもあります。次の真矢先生の言葉をごらんください。

 愚か者や怠け者は差別と不公平に苦しむ。賢いものや努力をしたものは、色々な特権を得て豊かな人生を送ることが出来る。それが社会というものです。あなたたちは、この世で人もうらやむような幸せな暮らしが出来る人が、何パーセントいるか知ってる?たったの6%よ。この国では100人のうち6人しか幸せになれないの…
(「女王の教室」より)

 私には特権とか豊かさで幸せを量ろうとするこの言葉自体がうさんくさく思えますが、それに目をつぶれば、これはまさに福沢諭吉が『学問のすゝめ(初編)』で述べていた言葉と驚くほど似ていると思います。

 天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。


 されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。


 されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。


 その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぷと学ばざるとによって出来るものなり。
(中略)


 されば前にも言える通り、人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
(『学問のすゝめ』より)

 脚本家がどう考えていたかを斟酌するよりも、受けとる私たちの方を考えてみましょう。そこで真矢先生の言葉は、この福沢が言う「自恃(じじ)」の言葉として捉えられていたのではないかと思うのです。

 いい加減目覚めなさい。あなた達の夢や希望を理解して、好きなようにさせてくれる親なんてこの世にいないんだから。親なんて、所詮いつまでも子供を自分の言いなりにさせたいだけなの…
(「女王の教室」より)

 こういう言葉にまでネオリベラリズムを見るのはいくら何でも無理に思えます。それは自らの力を信じ、甘えを断ち切って障害を自力で克服しなさいという「自助」の強調として受けとられていたと考える方が自然です。


 ネオリベラリズムの危険性をおっしゃる方々は、それが「競争社会」であり個人に「自己責任」を求める弱肉強食の世界であるとされます。そして結果としての「格差拡大」についてはやむを得ないとされるため、それは「弱者切捨て」の考え方だと言われます。
 私にはこれはネガティブな方向だけを考えた極論に思えますが、それはともかく、こういう内容を称揚するものとして「女王の教室」が受け止められていたとはどうにも考えられないところがあります。


 自恃の心を持てと子供たちに語り、返す刀で似非ヒューマニズムを切り捨てているように見えたからこそこの番組が一定の賛同を得たのではないでしょうか。そういう「本音」みたいなものを求める人がある程度いたのだと思います。この「時代の雰囲気」は、そのまま新保守主義と重なるものではないと考えるのですが、どうでしょうか…

 学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生れ附きは、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。
(『学問のすゝめ』より)