貧しい人に施すこと

 宗教と一言でまとめられている概念に共通の内実はあるか?これは未だに議論になるところです。宗教の定義自体に絶対のものはありません。ただ様々な実際の「宗教」において、神もしくは超越者の存在が信じられ、何らかの形での救いが求められているということは言えるかもしれません。ただその救いにしても、現世での実際の苦からの救いが問題になるのか、現世での心の救いが問題になるのか、あるいは現世的でない救いが求められているのかなどひとしなみには語れないところです。


 目の前の困窮している人を救いなさいとは多くの信仰で求められることです。ただ、これはもともと人間社会の倫理的基準として求められていた「共生の論理」、情けは人のためならずという相互扶助の道徳が教義に反映している部分も大きいと思います。つまりいくつかの教義はもともとの共同体の倫理を包み込んで成立したと考えられ、必ずしも物質的な相互扶助がその宗教の根本を支えるものにはなっていない場合が多くあるのです。


 たとえばイスラムの信仰の五つの柱の一つにザカート(喜捨)がありますが、これは現世の財、所有するものが苦悩の源泉(悪魔がもたらしたもの)であって、その一部をアッラーに捧げて残りの財を浄めるという発想に基づきます。しかしここにはイスラム以前の共同体の倫理が色濃く残ると見られていますし、またこのザカートの用途は困窮したムスリムを助けるためとされていますので、非ムスリムすべてを助けるという目的にはもともとつながりようがないように思われます。


 また仏教において布施は、貧窮者に施されるものであると同時に出家修行者や仏教教団に与えるものでもありました。そしてその内容も、衣食などのものを施す「財施」の他に、教えを説き与える「法施」や怖れを取り除いてあげる「無畏施」も同等のものと位置づけられてあったのです。物質的な布施で困窮者を救うというところが中心の発想ではありません。
 大乗の教義に移って後に利他行が重視されますが、伝統的には無所有の僧侶への供養・布施が信者にとっても徳を積む機会として喜ばれるものです。貧しくても、いえ貧しいものが布施するからこそ尊いという「貧者の一灯」の譬えもあります。


 少なくともすべての宗教が現世で貧富の差がないユートピアの樹立を求めているのでないことだけは確かです。困窮者へものを与えるという同じ行為についてもさまざまな意味づけがあり、その意味付けこそが一つ一つの信仰を支えるものとしてあります。
 ですからその意味付けを考えてみることなく、「宗教だから人を救え、寄付をしろ」と居丈高に要求するのは、全く宗教のことを考えていない(わかっていない)人のやることで、それは傍で見ていて恥ずかしい(=かたはらいたい)ように感じられるのです。

幸福とは(墓穴?)

 自分の墓穴を掘るようで気が重いのですが(笑)、昨日紹介した澤口氏の文からさらに少しだけ引きます。氏は、どんな要因・環境が幸福感の程度と関係するのかについての統計学的な調査について前置きして次のように言われます。

 そうした調査が世界的に行われたことが何度かあった。その結果、国家、民族、人種、性別、年齢、あるいは社会的地位や経済状態などの多数の要因・環境は幸福感とは全く無関係であることがわかった。「幸福は金で買えない」とか「ぼろは着てても心は錦」は統計学的にも正しいのだ。
(澤口俊之「ちょっとあぶない脳」より)

 ですから、収入が低いというその一点だけを以って他者を「可哀そうな人」とみなすことがいかに偏頗な見方かということがいえるのではないでしょうか? もちろん生き死にに関わるような貧困となれば話は別でしょうが…。そして氏は次のようにも続けます。

 で、注意深くみてみると、幸福感と深く関係する要因が一つだけみつかった。「既婚か未婚か」である。結婚している人は、そうではない人よりも強い幸福感を抱いていることが判明したのである。
 この調査結果を素直に解釈すれば、男女間の持続的な結びつきを維持するために、幸福感は進化してきたということになる。

 で、未婚の私としてはこれにコメントする立場にないのですが、既婚者の方はいかがお考えでしょうか?
 いらずもがなの蛇足だったかも…