なぜネオリベラリズムが新保守主義なのか?

 社会と個人の間に分離が生じ始めたのは、ヨーロッパ近代の市民社会においてでした。この分裂が進行するとともに、個人の立場が社会に優先するという考え方が出てきます。これがプリミティブな形でのリベラリズム自由主義)です。それは社会≒国家の干渉を排除し、個々の自由に任せれば世の中は良くなるという信念です。
 これに対して、個人の社会との結合を緊密にし、社会的操作によって世の中を良くしていくべきだという考え方も現れます。これが広義のソーシャリズム社会主義)です。


 リベラリズムには、国家主権による干渉を最小限にして個々人の自由度を高めても社会は自然にうまくいくはずだというその時代の考え方がありました。たとえばアダム・スミスの「神の見えざる手」という言い方も経済学に留まるものではなく、自由放任が自然にシステムとしてうまくいくはずというリベラリスティックな信憑がそこにあったのです。それは必ずしもキリスト教的「神」を想定しているわけではありません。また、個人を最初に立てて考える社会の成り立ちの「起源神話」としてジョン・ロックなどの社会契約説が生れてきました。そして、個々人の自由に完全に任せても社会がうまく機能していくという考え方を突き詰めたところに無政府主義も現れてきます。
 しかしその後のリベラリズムは、アメリカのリベラル/リベラリスト(≒民主党)に代表されるように公共の福祉・弱者の救済を標榜する立場となり、社会(政府)による調整を積極的に考えるようになります。リベラルという意味の変容があったのです。これに応じて、もともとの個人の自由を主眼とする立場にはリバータリアニズムという呼称が与えられます。


 一方ソーシャリズムの方は、マルクスなどによる狭義の社会主義(生産手段が少数者の私有ではなく社会全体の所有であるような社会体制)の方向と、個人の立場を重視しつつモデレートに社会的改善を目指す社会民主主義などの方向を生んでいきます。前者の現実性は前世紀末以降ほとんどその信用を失ったのですが、後者の方向性、特に公的制度による社会の改善という方法はすでにソーシャリズムの垣根を超えて広い立場に共有されるものとなっています。


 ネオリベラリズムという考え方は、個人の自由に任せようという視点からはもともとのリベラリズムへの回帰としても考えられます。またそれがソーシャリズムの対義であるという意味から保守主義とも捉えられるのです。こういうところがそのネーミングの背景にあるのだと考えます。


 私自身は、個々人の自由に任せて世界がうまくいくという考え方はすでにナイーブすぎると思っておりますし、政府の施策による社会的福祉の向上の価値は十分認めるものです。
 しかしネオリベラリズムにおいても「最小限の政府の介入」は必要だという考えはあるのです(だから「ネオ」という言葉を冠しているのでしょう)。何もそれは初期リベラリズム、もしくはリバータリアニズムへの直接の回帰ではありません。ですから、考えの方向性としては「あり」だと個人的には思っています。もちろんそれがうまくいくのかどうかについては、今後の現実の状況が検証していくものですから、無条件に賛意を示すつもりはありません。
 ネオリベラリズムが全くの「自由放任」であり「競争社会」であり「弱肉強食」だとするのは、おそらく間違いであると思いますし、極論による誹謗に近いものではないかとも考えます。といいますか、私にとっては狭義の社会主義を実行するよりははるかにましな選択肢に見えるのですが…。
 私は政治学の専門ではありませんから、こういう簡略化が妥当かどうかご意見があればお寄せいただきたいと思っています。これはあくまでも私見による解釈です。