文章力というものはありません

 「文章力というものはありません」と書くといささか扇情的ですが、文章力という実体はありませんしはっきり確かめる術もありません。それは結果から振り返って作られた仮想の尺度です。ただそれが有用に働く場合もあるとは思いますが…。


 文章力と同様の成り立ちを持つ語に学力という言葉があります。当たり前に使っている言葉でもありますし、学校でも、公文書でも用いられるものです。そしてそれを量るものとしてテストがある…と普通思われています。
 しかしよく考えて見るとこの話も転倒しています。実はテストなどの結果があって、そこから逆に学力というものが想定されているだけなのです。なにしろ学力というものは目に見えるものではないですから…。


 ちょっと入試のことを考えてみましょう。たとえば高校入試で「国語」「英語」「数学」「理科」「社会」の五教科が課されていたとします。現行の制度では「国語」が何点、「英語」が何点、「数学」が何点…というのを合計して一つの尺度にし、そのリニアな尺度のある一点を定員などから考慮して決定し、その点の上を合格、下を不合格として決めています。ここでは全教科の合計点があたかも「学力」というものに相当するように考えられています。
 本来「国語」の点数と「数学」の点数を単純に足したものなどに意味はありません。それぞれ尺度が違うものを合算しても一つの尺度にはならないというのが常識的な考え方です。身長と読書の時間の数値を足しても普通無意味ですし、どれだけ和食を好むかという嗜好性を数値化したものと各人の基礎体温を足したところで何も意味が生れません。
 しかしそれを学校教育で習得される教科の知識(の尺度)というぎりぎりのところに共通点を求め、半ば妥協して合算という方法を採っているに過ぎません。これは身長と体重を合計して「体位の尺度」とみなすのと同じぐらい粗い方法です。制度としての(全教科を教える)高校というものが先立って、そのため入試の方法に妥協が求められているとも言えるでしょう。
(たとえば教科習得の能力を「記憶力」みたいなものだけで量るとすれば、五教科ともに必要とされる能力にはより近いところがありますので問題は少ないでしょうが、それだけではないとおっしゃる方のほうが多いように思われます。だから妥協と申すわけです)
 大学入試になりますと学部学科や大学自体がより専門性を高め、入試教科の絞込みもされますので妥協する部分は小さくなるとはいえますが、結局科目の数字を足しているところにある程度の無理があるのには変わりありません。ところが恐ろしいのは、長く入試などに関わっていると本来「妥協」で「仮想」のはずの合計点で量る「学力」が、何か実体を持って感じられてくるということです。入試周辺の職種(予備校など)も、入学志望者も、その父兄も、入試を行う学校までがほとんど「学力」を自明のものとして扱ってしまうというのは、皆壮大な釣りに引っかかっているようにも見えます。


 繰り返しますが、たとえば「各地の気候や風土と生産について考える能力」と「外国語を身に付ける能力」や「漢文を味わって読む能力」を一つのものとして捉える尺度などありません。もちろん各教科の間に重なる部分や一方が一方を前提とする部分などはあります。しかし実際は同じ教科の中でさえ方向性を異にする能力が並立してあるわけですから、おおざっぱな「学力」という言葉は実体を持たないと言って差し支えないと思います。
 また学力というものがきちっとした尺度であれば、それを計量する手段〜テストが異なってもほぼ同じレベルを示すはずです。しかし必ずしもそうなっていないことからも、それがかなりあやふやな尺度であることはわかります。


 そしてこの大きな勘違いを支えるもう一つの要因は、テストの点数(数値化)にあるとも考えられます。普通単位の異なるものは合算に抵抗を感じるはずです。身長のcmと体重のkg、それに速度のkm/hを足そうとは思いません。しかしテストの点数は、皆何点というような同じに見える単位で出されたりします。これは見かけ上に過ぎません。異なったテストで絶対的に同じ尺度の点数が出るわけもないのです。実際には78数学点とか92英語点と示す方が適当でしょう。そうなれば誰も84国語点と61理科点を足そうとは思わないでしょう(足したら145国語・理科点でしょうか?)。


 こういう話の後で何ですが、それでも「学力」という言葉が決して無くならないのは、そこに一定の有用性があるからです。入試絡みで言うなら、それは「合格するかどうかの潜在的な可能性の尺度」として考えられます。テストの条件をできるだけ本番に近いものにして、それを何度も試行すれば、不可視の可能性をある程度わかりやすい数値で捉えることができます。
 また入試を行う側からすれば、科目の点数の合算以上に有効な尺度があまり考えられていないというところもあります。(内申を使うとか小論文を書かせるとか傾斜配点にするとか、さまざま試みられてはいますが、合理性や公平性という点で(妥協の産物である)合算より優れていると皆が思えるようなものは今のところないでしょう)
 以上のような意味で「学力」というものは、本来テストなどの手段の後に、逆に振り返って仮想される尺度であるということが言えるのです。


 さてようやく「文章力」に戻りますが、文章力というものを分析すれば、それは語彙や用例(文法)の豊富さ、そしてTPOを認識する力などになると思います。その総合的なものとして一つ考えられなくもないでしょう。しかしこれもまた、「文章を思うように(満足に)書けた」とか「文章を意図どおりにわかってもらえた」とかいう結果(あるいはそうできなかったという結果)の方から振り返って考えられる仮想尺度であると思います。
 しかもその結果にしたところで、おおよそ自分の満足がどうだったかという主観的なところで判断されるところが大きいと思いますから(文学賞を取らなければ文章力がない、取ったから文章力があるというものではないでしょう)、むしろ「学力」よりさらに曖昧なものではありそうです。相手に意図を伝えるという面ではある程度の客観性はあり得ますが…。


 これを書こうと思う気になったのは、こちらの「ブログは文章力を上げるとは限らない」という文を読ませていただいたからです。真っ当な文だと思いますし、結論も穏当な線でしょう。ただ一点、文章力というものを何か実体のように考えておられるなあと思えましたので、本当にそうかなとこれを書いてみました。


 人は思考を簡単にするためにこの転倒、「振り返って出現する尺度を先にあると仮想する」ということをわりによくするのだと思います。たとえば英語力があるとか、忍耐力があるとか、もしかしたら魅力があるというのもその典型なのかもしれません。これらはすべて結果として「英語でうまくコミュニケートできた」とか「我慢できた」とか「人が寄ってきた」とかいう地点から振り返って、何か実体のようなものを想定しているに過ぎません。まあ私もそれなりにこの思考法は使いますし、何もこの文は「間違っているからやめよう」と誰かに伝えたくて書いたものでもありません。ただ、こうやってちょっと相対化して考えてみれば、その仮想の尺度に過度に囚われて気鬱になるのは避けられるんじゃないかと思うのです。結果を出しさえすれば、そんな後付けの尺度なんかに拘る必要はないわけですから…。


 最後に、文章力がどうこうというのではなく、一部の人には本当にこうやって文を書いてみる、文字を並べてみるというのが難しいという場合があります。書き慣れた風を装う私なども(笑)、しばらく書くことから遠ざかっていれば、すぐ白紙の前で油汗という感じでもあります。ですから、最初の敷居を低くするという意味ではブログなり日記なりを毎日のように書くというのは極めて意味があると思っています。