樹形図モデルと河川図モデル
Schwaetzer@おしゃべりSchwaetzerの飲んだくれな毎日さんのところでここ数日日本人論でコメントも含めて盛り上がっておられるようです。この手の話は私もよくいたしたもので、ある程度考えて話してはペンディングのような感じで何度か試みておりました。同じ話を繰り返しているようでそれは決してループではありませんし、自分の中ではその都度何かが見つかるようで、結構好きな類の話です。
ここでは傍で見て一言、という感じでこちらの日記の「糧」とさせていただきたいと思います(笑)
Schwaetzerさんのお考えの基本線は、ナショナリズムが語られる時の"nation"がフィクショナルなものであると考察されるところにあると思います。つまりそれは「nationとは想像の共同体(imagined community)である」*1とベネディクト・アンダーソンが言ったもの、さらにはそれを受けて柄谷行人が「ナショナリズムは近代のフィクショナルなイデオロギーにすぎない」としたような考え方だと私は受け止めました。
この考え方の有効性は私も感じますし、確かにナショナリズムの相対化に一定の効力があると思います。Schwaetzerさんは10/11の日記で「差別主義・排外主義」になりがちなそのナショナリズムというものに危惧を表されていますが、これはかつて私も共有していたものでした。
根拠がないのに「日本人として誇る」といっちゃうと、差別主義・排外主義になり勝ち。
ただ、私はむしろ外国の方と交流するようになって後、一方的に「ナショナリズムがいけない」と思わないようになってきました。私にとってナショナリズムが観念的でしかなかったときに比べ、諸外国の人のナショナリズムに触れた後では単にそれを悪者とできないように思えるのです。
個人的な話は別にして、上のような「国民国家をフィクションと喝破する」という「暴露戦術」に対してはいつも「民族概念は単なるフィクションではない」という文脈で"ethnicity"のことが語られたりします。
nationという面での民族は歴史的に限定された存在だが、ethnicityという面での民族は長い歴史を持つ
(松本健一『民族と国家』(PHP新書202))
彼が持ち出す「二つのネーション観」には、たとえばドイツの歴史学者マイネッケによる「国家的ネーション(states-nation)」と「文化的ネーション(culture-nation)」の対比や、政治哲学者ハンナ・アーレントによる「法的制度としての国家」と「歴史的・文化的統一体としてのネーション」の対比、そしてアンソニー・スミスのnationの類型区分などがあります。
・「市民的・領域的ネーション(civic, territorial nation)」
領土・市民権・共通の法・共通の政府・政治的文化・市民的精神を基礎とする連帯、および国家形成
・「民族的・系譜的ネーション(ethnic genealogical nation)」
歴史的記憶・集団としての運命・神話・血統(血統神話)を基礎とする集団的アイデンティティーおよびそのアイデンティティーに基いた国家形成
(アンソニー・スミス『ネーションとエスニシティ』巣山靖司他訳、名古屋大学出版局、1999)
私は結局ネーションを虚構と見るか伝統と見るかには、今現在の国家観が大きく影響するものと思うようになっております。どちらにも一理あると申しますか、無下にどちらかを否定するのは理性の問題ではないでしょう。
そして、一歩引いてこれらの国家観を眺めた時に、Schwaetzerさんの10/11のこの言葉
「日本人として誇る」といったときの「日本人」には根拠がない。
に代表されるような論証と、それに対立する側の論証には「モデル」の違いがあると考えるようになりました。
Schwaetzerさんのようなタイプは「樹形図モデル」です。これは、現在ある存在には必ず「根(root)」があるという発想に基づきます。だからこそ、「日本料理」と誇らしげに語ってもそれは京都の地方料理に過ぎない、とか「平家物語」を日本の伝統としてもそれはインド発祥の仏教と、それを漢訳した中国人のおかげで初めてこういうものが書けるのだ、という話になるわけです。なるほどそういう風に見れば、オリジナリティは解体され、日本文化に根拠がないというような語り口になるでしょう。
しかし単純にこれは承服できるものではありません。このタイプの語り口はすべてをオリジンに還元してしまうもので、そのような単純な論理は通常の文化論においては乱暴すぎます。日の本に新しきもの何もなし…それは言い過ぎでしょう(笑)
これに対するモデルとして、私は「河川図モデル」があるのではないかと考えます。樹形図の逆です。河口付近にある川(現在の存在)には、様々な支流が流れ込み、それが一つの実体を作り上げているという発想です。
ほんの小さな流れとしてでも、それぞれのエスニシティーが影響を与えつつ現在の日本なり日本文化は創りあげられている。そう考えれば、今の日本をつくりあげてきた一つ一つの小さな郷土、小さな歴史のすべてがともに日本の今に大事なものであると思えるわけです。
一地方の京都で発想された食が、今や日本を代表する食になっているとすれば、それは京都オリジンの人といっしょに誇ればよいことです。それぞれの地方の特色ある食文化が捨てられているわけではありません。並列のその一つが海外にアピールするものとしてあるとすれば、それは共に分かち合える誇りとして考えられないでしょうか?
「平家物語」に仏教が、そして晨旦の文化が影響しているとしても、それは有難いことだと認め、それでもなお日本においてそれがあの琵琶法師による「平家物語」としてまとまったことには、何ら恥じるところはありません。むしろ素直に誇ってもよいものだと思います。これは「日本が、日本が」という功績を誇る(言い換えるならばオリジンを誇る)方向の対極にあるような気もいたします。こういう見地からは、他を排斥する発想の逆のナショナリズムというものがみられるのではないでしょうか?
まだほんの思いつきに過ぎませんがこういうことを考えており、今回Schwaetzerさんの語られるものに触発されてちょっと書いてみた次第です。こういうモデルの違いを、どちらの論者さんも意識されてみてはいかがでしょうか?また新たに面白い議論が構築されていくような気がいたします…。
*1:ベネディクト・アンダーソン、白石さや・石隆訳『想像の共同体』NTT出版、1997