樹形図モデルと河川図モデル補遺

 昨日提示してみました樹形図モデルと河川図モデルというものは、それぞれの人が自分の周りの共同体(国)をどう考えるかについての「仮説」です。なにもどちらが正しいと主張するものではありませんし、むしろどちらにもそれなりの正しさ(確からしさ)を感じることができるだろうと思うような「モデル」です。Schwaetzerさんのお考えをきっかけに、考えていた筋道を書いてみようと思ったものに過ぎません。


 今現在の自分の周りに共同体の統一性を見ない向きの方は、様々な根っこから枝葉が伸びているイメージで御自分のあたりをご覧になるでしょうし、そこで縄で枝葉を(国として)くくってみたところで、それは「無理に縛り付けている任意の紐帯」にしか見えないことでしょう。
 しかしその逆に自分の周囲に共同体の統一性を見る向きの方は、様々な支流から流れ込んだ水で一つの大きな流れができているというイメージで周りを見るのではないかと思うのです。それは一つの(国としての)流れになっていることは自明で、「多様なものを飲み込んだ必然の紐帯」として観じられるはずです。


 おそらくほとんど同じものを見ているのにも拘わらずこういう違いがでるのは、それぞれの志向する世界認識に親和性のあるモデル=物語を無意識に選択しているからであり、それだけ世界観というものにフィクショナルな構成が影響力を強く持つということの例証ではないかと私は思うのです。いわゆる「たかがフィクション、されどフィクション」といった決まり文句がぴったりくるような状況が見えているのではないかと…。


 これは私の認識で「仮説」として提示したものですから、この見方自体に賛否があって当然だと思います。しかし私はこれを当為として(言い換えるなら政治として)ここで語っているのではありません。どちらを選ぶべきかという問題は方向性が違います。にもかかわらずコメントをつけてくださった方のお二人までが、「共同体主義の人に利用されちゃう心配」とか「一つを仮想することは危険」とか、当為の言葉でこれをお考えになられています。


 それほど片方に有利な危惧を抱かせるだけの「迫真」のモデルだったのでしょうか?(自信もっちゃっていいんでしょうか?) それならばお二人のご意見は賛辞として快く響きますが…(笑


 いや私も政治を語るときはあるのですが、日本人論とかその見方については政治ではなく(つまりどういう見方をすべきかということでなく)、どう認識されているかを明らかにしていく方に興味を持っております。ですからそこをお汲みいただいて、モデルの良し悪しあたりでのご意見がいただければと思う次第です。


 昨日はサッカーも惜敗してしまったようですし(見ませんでしたから論評はできません)、書くべき書類は山積みですし、今何か書いても自分ですら満足なものがまとまるようには思えません。今日はこのぐらいで…。(地震のことなども大変気がかりですが、今は声をあげるよりできることをしておこうかと思っています。何か不十分で、ご意見をいただいた方々には申し訳ないのですが…)