余談 ナショナリズム考

 ナショナリズムを良し悪しで考えるのが正しいとも限りませんが、あえてそういう見方をしたとき、私はナショナリズムだからそれは良いという立場にも、ナショナリズムだからそれは悪いというという立場にも立っていません。基本的にはナショナリズムって何だろうと考える段階にいます。
 しかし「ナショナリズムは当たり前(で良いもの)」という立場と「ナショナリズムは(無条件に)いけないもの」という立場は非対照対称の関係にあるとは思います。「ナショナリズムは(無条件に)いけないもの」という考え方は非常にマイナーであり、ある意味とても限定的なものだと認識するからです。


 自分のナショナリティーを意識する状況、つまりインターナショナルな状況では、国というものと自分の関係を再考せずにはいらません。それはいずれの国の人でも同じことでしょう。そしてその過程で、ナショナリズムというか自分の中のナショナリスティックなものに気付かされます。かつての私にはナショナリズムの負の部分ばかり目についていましたし、単純にそれを否定する道もとれたかもしれませんが、わかったつもりでいたナショナリズムというものをなぜか考え直してみたくなったわけです。


 ある意味すべては定義しだい。それならばナショナリズムの再定義だってできそうなもの。というわけで、漠然と思っていたナショナリズムの意味合いと、そして自分の中のわずかな材料で、私はそれから国と自分の関係をたびたび考えるようになりました。そしてそれが負からの反動であるだけ、私の考えは「ナショナリズム」はどう肯定されるのかという方向に多く向けられていると思います。


 日記をはじめて半年ほどになりますが、未だに自分が気合を入れて書いたり時間を費やしたものと反応があるものには結構違いがありますね。そこらへんは全く関係がないのかもしれません。
 10月17日の日記もそうで、私としては小泉首相の参拝ニュースに朝からびっくりしていて、速報だけで日記を埋めるのもなんだか…というところで書いてみたものですが、異様に「食いつき」が良くてびっくりしています。


 あれは私のナショナリズムに絡んでの考えの一つの流れを出してみたものです。思い付きから膨らませて検証する仮説に、できのよいのもあれば表に出すのもはばかられるようなものもあります。あそこで考えていたのは、ナショナリズムがなぜ「自然に」思われることがあるのか、そしてその時にむやみにそれを責めるのはおかしいのではないか、という類のことの一つです。
 期待する反論というか反応としては、ナショナリズムはやはり「不自然」なものであるという論陣か、ナショナリズムはやはり責められるべき、という真っ向勝負のものでしたが、どうも食いつきどころが意図とずれているわけです。
 お読みいただければわかるように、大統領就任演説のところは単なる枕にすぎません。また枕はできるだけわかり易いものにしたいと考えておりますので、そんなに「言っていることがわからない」的な反応は予期してもおりませんでした。当惑しております。あまりにわからないという声が多ければ、枕など切ってもかまわないくらいなのですが…。


 よほどの論考を書いた場合ならともかく、それほどの筋を持っている話でもありません。せっかくコメントしていただけるなら、上に記したような「真っ向勝負」といった形での反応をしていただけないでしょうか。言葉尻を捉えてどうこうするに値するほどの記述ではないと、書いた私自身が思うほどですので…。