忘却の視点

 トラックバックをいただいたbluefox014さんの今日(10/21)の日記にはぜひお答えしたいと思います。こういう感じが一つ期待していたタイプの反論と感じるものです。もとは私の10月17日の日記に対しての反論的ご意見です。
 国家と個人との関係を考えるとき、現在の自分から考察を始められるとその関係が見えにくいものだと私は思っております。なぜならそこでは、個としての自分がすでに完結したものと観じられてしまうことが往々にしてあるからです。それはむしろ過去を忘却した議論ではないかと考えておりますし、私には上記urlのbluefoxさんの日記にそうした側面があるように見えております。
 端的に申しますとそれはbluefox014さんの次の表現、

 個人的に思うのだが、人と「国家」は、本来そんなに「ベタ」ではないような気がする。それなりの距離があるはずではないか。

 ここらへんの感覚に関わってくるのではないかと思いますが、それは後述いたします。


 さてbluefoxさんは拙文を読まれて、「じゃあ社会主義国家に生まれた人間はどうなんだろう」ということを思われたそうです。これについては全く迷いもなく、私は「社会主義国家に生まれた人間」もその国家に対するナショナリズムを自然に身につけるものと考えております。

 仮に私がソ連時代のロシアに生まれたとして、ソ連に生まれたということはいわば運命的なもの、か。「生れてきた以上人はそこにできるだけ意味を探そうとします。その意味の一翼を担うものに、そこで生まれてきたことというのも考えてよいはずです。ならばその運命は愛したいと思ってしかるべきでは?」

 北朝鮮に生まれた人間にとって、「その「運命」は愛したいと思ってしかるべき」なのだろうか。
 (イタリックは拙文の引用)

 ソヴィエト・ロシアの人たちが愛国心ナショナリズムを持っていなかったという話は聞いたこともありませんし、それを想像するのはむしろ難しいでしょう。確か先の大戦の対独戦は「祖国防衛戦争」と位置づけられていたはずです。また現存する社会主義国家(中国、キューバなど)でも、人々にナショナリズムはあると考えて問題はないと思います。少なくとも中国のナショナリスティックな感情の暴発は、対日デモ(暴動)の形で記憶に新しいものです。
 確かにそこでの生活が悲惨であれば、そして国家が抑圧者となっていれば、ぎりぎり追い詰められたところで人は反抗するものだと思います。暴動、動乱、反乱、革命…そうやって数多の国が倒れてきました。しかしそれらの国々も、本当にひどい環境になるまではやはり愛され、尊敬されていた時期を持つと考えます。まさに人々は苦衷の中にあっても人生に意味を求めるものだと思いますし、第三者的に見てどんなに非道な国家でも、まるでだまされているかのように人々がそこに忠誠を見せるということはあり得ます。私たちはその典型を北朝鮮に見ることができるでしょう。北朝鮮の抑圧された人々にとってでさえ、自国が威勢の良い国であって、暴虐なアメリカに敢然と立ち向かい、卑劣な日本を問詰する力を持っているという「プロパガンダ」がそれなりに有効だったりもするのだと私は思います。


 「その「運命」は愛したいと思ってしかるべき」という語を「愛さなければならない」と読まれてはいませんか? これは「運命はきっと愛したいと思ってしまうだろう」とか「運命を愛するようになってしまっても不思議ではない」と読んでいただきたいものです。それはある意味悲しい性かもしれません。特に傍から見て「ひどい国家」であるように思えたり「国民のことを蔑ろにしている」ように見えたりするときは、それでもその国に忠誠を誓ったりする人は「馬鹿」にしか思えません。でもおそらく状況などに関係なく、それもナショナリズムの一つの在り方なのだと思います。もちろん負の側面ではありましょうが。

 人は「国家」に対してそれほど「ナイーブ」になれるものなのか。ある国家に生まれたという「運命」に対し、人は没判断的に「好意的」になれるのか。

 少々ペシミスティックな考えではありますが、私はこれはあると考えます。人はそういうどうしようもないところも持っているのでしょう。理性的に考えて好悪を判断する場合より、ずっと多くの場合に「運命」を考えて(あるいは「運命」と考えたくて)「好意」を持つものだと思っています。

 北朝鮮に生まれたある人が北朝鮮に生まれたという運命に「好意的」だとしたら、それは何を以て好意的なのか。判断はあったのか。没判断だったのか。判断しようにも、判断の材料はあったのか。判断の機会を奪われたのではないか。

 もし私たちが「判断の材料・機会を奪われたかわいそうな」北朝鮮の人たちに「あなたたちはだまされているんだ」と様々な証拠を提示することができても、そうそう信じてはもらえないでしょう。これはもう人間観の違いとしか言えないかもしれませんが、私はそれほど理性に常に信が置けるとは思っていません。人には衣食足りて礼節を知るところがあります。それこそ国を棄てるほど追い詰められ、国に殺されると思いつめた人でなければ解けない迷妄というものはあるだろうと考えます。そして時にナショナリズムはそうした迷妄の一つだと認めねばならないでしょう。

 個人的に思うのだが、人と「国家」は、本来そんなに「ベタ」ではないような気がする。それなりの距離があるはずではないか。

  この部分でbluefoxさんの語られる「人」は、国家や集団などなどの存在と分離し独在する個人でしょう。おそらくそこにリアルさを感じていらっしゃることに嘘はないと思います。しかし人は、最初から独在し自立する個人などでは生まれてきません。
 人の自我(エゴ)はもともと自分ひとりに閉じたものではなく、成長とともにだんだん自我の枠が狭まってくると見ることができます。そして近代西洋的な視点からは、bluefoxさんが到達したような「偏りや捉われのない個人」というものがその完成形です。その視点から見れば、なにもわざわざ「国家」に「ベタ」になることはないのに…という感想をお持ちなのも理解できます。それは「それなりの距離」を置いて「国家」を見る自我の視点だからです。


 しかし人は、そのもともとの開かれたエゴの段階で親・兄弟(家族)や親族、そしてそれらの人々が属する集団の影響を陰に陽に受けて育ちます。何も特別の教育がなくても、ほとんどの人には愛郷心が生まれます。これは近代国家の成立以前から認められることだと思います。
 もちろん国民国家成立以前に「国」の影響は一般の人々に対してほとんどなかったと言えるかもしれませんが、ひとたび国民国家が出来、その成員となるとそれに巻き込まれずにいる方が難しいのではないかと考えています。
 国民国家はかつて民族自立という理想のためのシンボルでした。それをポジティブに捉える国民が創出されなければ、国民皆兵も徴税システムも成り立たなかったと思います。ただ、その熱狂は内向きの求心力を作ると同時に外部を排斥する力も生み出すものでした。ですからそのあり方には功罪両面があったのです。
 さて話を戻しますと、国民国家の成員となった家族や共同体に育つものは、自我の発達過程で軽重はあれ国というものに感化(もしくは一時的にもその自我へ取り込みが)されるのだと考えます。またそれは学校や仲間、郷土や共同体などなどの集団の影響と同レベルで人の心に刻まれるものだと思います(もちろん刻まれ方がポジティブだけとは限りませんが)。そして人は、それらの集団に自己の一部を残しつつも「個」として彫拓されていくのだと思います。


 独在する自己から考えはじめると、国であれいずれの集団であれ、そこに何らかの愛着の必然性など見えてこないのではないでしょうか。個在が前提であるならば、ほとんどすべての結びつきは(家族など一部を除いて)偶然の域を超えるものではなくなってしまいます。
 しかし国にせよ、他の集団にせよ、成長のいずれかの段階で自我として共有され、自分の一部になってくるのだと思います。たとえそれが偶然の始まりでも、いつかはそこに必然を感じるのが人間だと私は考えます。


 そうでなければ、レッズサポやロッテファンなどの熱狂も本当に理解することはできないのでは? 彼らは「ベタ」です。集団と自分をほとんど同一視することすらあります。しかし人によってはそれはいつもということでもなく、そこにさまざまなレベルがあります。
 愛国心もこれになぞらえた形をとると思われます。人によってはいろいろなレベルで国が存在します。そして人によっては一時的にも国が自分と同一視されることもあるのです。
 と、こういう形で私はナショナリズムを考えようとしているのですが、bluefoxさんがこちらに向き合ってくださったように思いましたので、思うところを書かせていただきました。不十分かもしれませんし最後がぐだぐだになってしまいましたが(汗)、これがいただいたトラックバックへのお答えということで…。