加納実紀代氏の「オピニオン」

 昨日の朝日新聞(10月28日「オピニオン」)で、三名の方が皇室典範会議に絡んで天皇制について語っておりました。日本は天皇を国の象徴として持つ立憲君主制の国家であるわけですが、皇位継承の問題を機に天皇・皇室といったものについて関心が高まるのは良いことだと思っています。ただしその是非という根っこの部分を語るにしてもまともな論じ方がされるべきであって、思いつきのような表層的批判が溢れるのは問題だと思うわけです。私が最もおかしいと感じたのは加納氏の論でしたので、少しこれについて述べたいと思います。
(※記事自体は職場の図書館で読みましたが、ここに引用した部分はネット上で引かれていた文を使わせていただいております。もし原文との異同がありましたらお教えください)


 加納実紀代氏(敬和学園大学特任教授)は「天皇制そのもの議論を」と題して天皇制の問題点を指摘しようとしておられますが、氏による三つの視点「階級」・「民族」・「ジェンダー(性)」からのそれぞれの批判はあまりに表層的であり、思いつきの域を出るものではないと一読して感じました。

「階級」の視点では、天皇制は生まれながらの貴賎や階級秩序を生み出す根源であり、人間平等の理念に反する。これらは女性天皇が可能になっても変わらない。

 ちょっと順を飛ばしてこの「階級」という面からの批判から見てみます。
 加納氏が「人間平等の理念」を信奉されるのは全く構いませんが、この理念は法律でも何でもなく、それ自体が歴史的な存在です。しかも単純に平等と申しましても、機会の平等か結果の平等かなどの話をはじめそこには様々な議論があります。そこらを捨象して、彼女の理想とする「理念」に反するから天皇制はおかしいと結論付けるのはあまりに無謀です。また何よりこれは「日本国憲法改憲論」であることを加納氏は意識されているのでしょうか?
 現在でも君主制を取る国家は、イギリス・ベルギー・オランダ・スウェーデンデンマークノルウェー・スペイン・モロッコレソトスワジランド・タイ・ネパール・ブータン・マレーシア・カンボジアサウジアラビア・ヨルダン・オマーンブルネイ・バハレーンなどが挙げられますが、これらの国では「生まれながらの貴賎や階級秩序」が生み出されるため、人々の平等が阻害されていると言えるのでしょうか?
 彼女の批判は、君主制民主国家と君主制独裁国家などを敢えて混同してみせているだけのものに思われます。近代以降の立憲君主制の国家では、君主制を存続しつつも国民の平等を図るというのが基本的な考え方になっておりまして、国民の統合の象徴として歴史的な君主を重視するという立場に「民主的」に国民が納得しているからこそ君主制は存続しているのだと私は考えます。
 何より、君主制を取らない「何とか民主主義人民共和国」には「特権階級」がいないのか、という深刻な疑問を持ってしまいますね。君主制を止める止めないは「階級」を社会からなくして「平等」にすることについて、それほどの役割を持たないということの証左だと思います。

 「ジェンダー」からも問題がある。女性・女系天皇が認められても天皇制は「世襲」であり、血統に権威の根拠を置く。そうであるかぎり皇室の女性には子供を生むことが強制される。産まない自由はない。女性天皇を認めれば、「何がなんでも男の子を」というよりはプレッシャーは減るだろうが、産まなくてはならないことには変わりはない。
子供を産むか産まないか、いつ何人産むかを女性自身が決められることをリプロダクティブ・ライツ(性と生殖における自己決定権)といい、いまや女性の人権の柱だ。天皇制はそれをあらかじめ奪うようなシステムであり、21世紀の人権感覚になじまない。

 ここで加納氏は「生まない自由」が「21世紀の人権感覚」に適うものであり、それに反する世襲君主制は古いとでも言いたいようですが、これもよく見れば単に彼女の個人的意見を出るものではなく、あまりに表層的な批判です。
 「生まない自由」がいつから基本的人権として認知されたかは寡聞にして存じませんが、産む産まないの問題は天皇制を議論する上では枝葉末節のことに過ぎないと私は思います。しかもこの問題は天皇制に固有のものでも何でもありませんし…。確かに世界の君主制の国家の中で「血統」が奇跡的に続いている(とみなされる)日本の皇室ではありますが、血統の確保のために複数の宮家を復活させるとか、いざとなれば側室(や後宮?)を認めれば「血統」については制度的に問題を解消できます。そちらの議論はさておき、この批判は天皇制と天皇の配偶者個人の人権を天秤にかけてみせているだけのものに思えます。よくもまあ問題をここまで卑小化できるものだと感心します。天皇制は、おっしゃる「ジェンダー」の問題とはほとんど関係ないでしょう。いえ、ジェンダーを語るときに天皇制を素材にするのはまだわからなくもないですが、天皇制を語るのにジェンダーを持ってくるのは、議論としてはごまかしに近いと考えます。知ってることを並べてみせた…それだけなのでは?

「民族」で言えば、天皇は「日本国民」の「統合の象徴」とされている。逆に言えば、 非「日本国民」の排除という排外主義をはらんでいる。

 さてここで「民族」の問題ですが、「民族」に注目するという不思議なところを除けば、単純におっしゃっていることは間違いではありません。統合の契機が生まれるのは「外部」を作るときであり、そこには「排除」の側面が忍び込むというのは紛れもない事実だと思います。
 しかしながら、国家の統合それ自体がこの問題をすでにはらんでいるわけです。「民族」とか「天皇」を殊更に持ち出す議論では全くありません。
 別の観点から見てみましょう。日本国民たる要件は法律上決められていますが、そこに「民族」というものは関わりませんし、「天皇」に対する忠誠云々も全く関係ありません。非「日本国民」に対する扱いが「日本国民」に対する扱いと同じではないという問題は、「民族」とか「天皇」の問題でないことがここからおわかりにならないでしょうか?
 この批判は、単に加納氏の頭の中だけで成り立つ理屈でなされているものに思えます(まあ他の二点もそれに近いのですが…)。そしてやはりこれも「改憲論」ですね。


 国家の枠を超えた国際主義的な観点を持つ方は多いのですが、それがコスモポリタニズムなのかインターナショナリズムなのかで議論は全く変わってきます。上記引用のように「非「日本国民」の排除」をすぐに「排外主義」だとおっしゃるような暴論をなされる方は、すべての垣根を取り払うことのみを理想とするコスモポリタニストであると思われます。内部と外部をなくすべきとされるわけですね。
 しかし(私もそうですが)インターナショナリストの理想は、内部と外部の問題に着目しながらも、その複数の「内部」どうしの平和的共存に置かれています。すぐに「内部」を解消することは不可能だと認識しているからです。実効的に「国籍」という枠組みが私たちの基本的人権や財産権などなどを保証する仕組みとしてある以上、それを単純に今すぐ無くすという無謀なことなど考えず、実現できるところから調和のとれた世界を目指していこうという考え方を私は支持します。
 コスモポリタニストの理想に比べて「ぬるい」ものですし歩みは遅いかもしれません。しかし空理空論を振りかざして自己満足をはかるよりは何倍もましなことに思えます。(ここまで言うのも、コスモポリタニズムの側の実効的なロードマップを見たことがないからでして、どこかにそういうものがあるなら、そしてそれが評価に値するものであるなら、私も自分の考えを変えるのにやぶさかではありません。ご存知の方はご教示ください)


 加納氏の議論はこの三点に集約されるのですが、どれもこれも氏の「理想」で天皇制を批判してみせる思いつきの議論にすぎないように思われます。こういう議論がまかり通っている(しかも三大紙の一つで!)のを見せられますと、まことに暗澹たる気持ちにさせられますね。