山岳信仰・修験道儀礼

 昨日、大峰山にむりやり登った三名の記事を記しましたが、法的には彼女たちにはそれほど責められないかもしれません*1。しかし何と言いますか、そこで踏みつけにされたのは現地の人の想いであり宗教的価値です。イスラムのモスクで異教徒を入れないところへ、それはおかしい入りたいと土足で踏み込むのと何らかわりないように私には見えます。山岳信仰だったらおおごとにはならないと高を括って(あるいはむしろ甘えて)行動したのではないでしょうか。だとしたらあまりにも悲しい出来事と言わざるを得ません。

 大峰山大峯山 おおみねさん)
 奈良県吉野山から和歌山県の熊野にいたる172キロにわたってのびる山系。平安時代以来、修験道の中心的な修行道場とされ、全体が金剛界胎蔵界曼荼羅に擬せられた。また北の吉野山、南の熊野三山修験道の拠点が作られると共に、山中の山上ヶ岳・小笹・弥山・釈迦ヶ岳・深山・前鬼などにも行所が設けられ、大峰八大金剛童子などがまつられた。修験者は吉野か熊野から山中に入って、これらをはじめとする70-80の宿を抖そう(とそう)する峰入り修行を行った。
(岩波『仏教辞典』)

山岳信仰のモティー

 基本的にはそこに「中心」のシンボリズムがあると思われます。聖なる山は、天と地と冥界が交叉する点(そこで上昇と下降が可能になるところ)であり、異界への遷移点・交流点と考えられるものです。これは世界の諸神話・伝説などで宇宙樹や世界軸として表象されるものに備わるシンボリズムです。
 また日本の場合山中他界観が伝統的にあり、ここでは特に死者の国との交流の側面が重視されます。その山中他界と仏教の死後他界との混交は以前から指摘されるものですし(ex.『霊異記』巻上の五・大伴屋栖野古の遍歴など)、山の神(先祖と同一視される)が季節ごとに降りてきて田の神になるという信仰は柳田國男が指摘していました(cf.『先祖の話』)。


 さらに山岳はイニシエーショナルな意味での「再生」の場としてもあります。深山の他界性は世俗からの離脱を可能にします。そしてそこに入山した聖や行者が、宗教的生を新たに受けて下山するというモチーフは数限りなく語られてきました。一般の信者においても講組織の発達とともに、山の中の水や岩といったシンボリズムに表される聖性に出会う巡礼が行われるようになっていたのです。この巡礼で人々は聖なるものと出会い、ある意味生まれ変わることができたのでした。

山岳信仰修験道儀礼

マンダラと「中心」

 密教において曼荼羅(マンダラ)はその宇宙論と救済論を象徴する媒体であり、密教的実践(加行)の手段となっています。私たちが目にする曼荼羅のほとんどは平面的図形表現ですが、時にそれが空間的・時間的にシンボリカルに表現された時、そこで多次元的な超越的水準が示されます。つまりそこでマンダラ象徴の示すものは質的に飛躍した時間・空間なのです。そしてそれはマンダラの中に楽園的イメージを見ることをも可能にします。このあたりは「聖なる山」のシンボリズムと同質の部分であると私は考えます。

呪力とイニシエーション

 室町末に修験道では山岳を金剛界胎蔵界曼荼羅とし、蔵王権現熊野権現など霊山の神格と開山を崇め、山伏十二道具を身に付けて十界修行を行うことによって即身成仏の達成をはかる教義や儀礼が成立しました。
 この山岳修行による験力の獲得という宗教儀礼は、世俗からの離脱>聖なるものとの接触>世俗への帰還という巡礼の構造と同じものを持ちます。そしてそれを支えるのがここでは聖なる中心としての大峰山系なのです。

修験道儀礼と宗教的世界観

 日本の修験には概ね以下の宗教的影響があったと考えられています。
 ・聖なる山のモティーフ(<山中他界、中心のシンボリズム)
 ・道教思想 …神仙の道を体得するために所定の方式にしたがって入山修行する
 ・仏教的思想…山中に仏菩薩の止住する浄土がある故、そこで禅定に入ることが必要
 ・儒教思想 …仁山智水を重んじる

山岳観

ここでの山岳観は、山が宇宙そのものまたは天と地が合体する宇宙の軸をなすということを基底とし、死霊・祖霊・諸仏諸神などの住む他界をそこに求めているといえるでしょう。

人間観

 また修験道では「本来仏性を持つ人間には、曼荼羅そのものである山岳での修行を通しての仏(=小宇宙)になる(あるいはその力を体得する)道が開かれている」としますので、その人間観では修験者と崇拝対象が本来同性質であるとされます。
 さらに、小宇宙としての人間の運勢は大宇宙の運行一切によっており、それは陰陽五行に即して解明されるとも言われますが、「全ては因縁によって生じる」という捉え方をひっくり返して、そこに「悪因縁によって求められる不幸の原因は、加持祈祷によって除去しうる」という行の力への信頼が見られるのです。
 修験の加持とは、崇拝対象の諸尊と同化しその衆生救済の姿や働きを印契や真言で示すことにより願い事を達成するというものです。諸尊の超自然力は自らにも、加持対象物にも付与できると考えられ、符や呪具、唱え言によって邪神邪霊を統御しうると信じられています。

結界と迷宮

曼荼羅(マンダラ)の迷宮的デッサンは、迷宮の宗教的意味(儀礼機能)をそこにオーバーラップしているものと考えられます。まずマンダラへの接近進入は「入門式」を意味します。迷宮は「彼方」を象徴し、入門式によってそこに入り込んだ者の死と再生とを効果的に表現するものなのです。またマンダラは、破壊的なすべての力に対して修行者の身を守り、同時に彼が神秘的瞑想の中で自己自身の「中央」を発見することを助けます。迷宮は伝統的に、悪霊・悪魔・カオスの力といった不可視の力に対して「防御の体系」を示すのです。

象徴体系としての修験道儀礼

 修験道において、すべての儀礼は大宇宙と小宇宙の照応の体系の中で捉えられるものです。そしてそこで中心となるのは擬死再生のモティーフの象徴体系であり、それは諸儀礼における「聖化」を意味付けます。そしてその擬死再生(イニシエーション)は山岳の「中心」のシンボリズムに支えられたものなのです。
 今回の女性の大峰山入りはこうした意味世界に対する(修復不可能とは申しませんが)冒涜行為であり、宗教や宗教性というものへの畏れの観点を失った無謀で軽率な行為だったと私には思えます。それゆえ悲しくなってしまうのです。

 【参考文献】(一応挙げておきます)

 ・『山岳宗教の成立と展開 (山岳宗教史研究叢書 1) 』、和歌森太郎 編 、名著出版、1975。
 ・『山岳宗教と民間信仰の研究 ( 同上  6 ) 』、桜井徳太郎 編 、名著出版 、1975。
 ・『日本仏教思想論序説』、山折哲雄講談社、1985。
 ・『修験道 山伏の歴史と思想』、宮家準、教育社、1978。
 ・『山岳まんだらの世界』、川口久雄、名著出版、1987。

(※この記事はantonianさんの「宗教とジェンダー」という記事トラックバックさせていただきます。どうぞそちらもご覧ください)

*1:あっても刑法第130条の建造物侵入(「三年以下の懲役又は十万円以下の罰金」)に触れるぐらいでしょうか。(本条の建造物とは、家屋だけでなく、その囲繞地をも含む[最大判昭25・9・27]。侵入とは、他人の看守する建造物等に管理権者の意志に反して立ち入ることをいう[最大判決昭58・4・8])解釈の余地はありますし、まして要求を受けて退去したとなれば立件もされないでしょうけど