もう少し大峰山の件で

 先週末から、トラック・バックやコメント等をいつになくいただいておりまして、皆さんの「女人禁制騒動」への関心が高いことを実感しております。(トラックバック等いただきました方々にはここで御礼を。賛否ありますが、どれも有難く読ませていただきました。私自身があまり自信をもって諸方にトラックバックできる方ではありませんので、このぐらいで失礼させていただきます)


 さて大峰山の件でいただいたトラックバックの中に、KUMAさん@日録のものがございましたが、日録の昨日の記事(こちら)につきましては、引用させていただこうかと思っていた箇所が実はあったのでした。それはこの件にからんでの話し合いと民主主義についてのもので、

民主主義的に話し合うというのは簡単ですが、実はとても難しいことです。異なるものが、多様性を尊重しつつ、妥協点を探ったり、共存の道を探るというのは、難しいことです。その難しいことをはじめる第一歩として、相手に色眼鏡をかけてはじめから「敵」だとみなさずに、先ずは聞いてみよう、平和的に話し合おうということが、多様性尊重の民主主義だと思うのです。


洞川にもし「民主主義」があるとしたら、宮本常一が『忘れられた日本人』で提示したような「民主主義」であって、首謀者達がこの世の中に普遍的に存在していると夢想している「民主主義」は存在していないはずである。

 という部分です。不勉強な私は宮本民俗学に暗く、おっしゃる「民主主義」にピンとこないアホウですが、山上ヶ岳に押しかけた方々が通常の意味での民主主義とか話し合いを履き違えているという感じは受けておりました。
 話し合いを申し込めばそれは無条件に必ず受けてもらえるはず、というのがまずおかしいのです。話し合いの場を作るのは、実社会でもそれほど楽なことではないと感じております。まして主張・意見が真っ向から食い違う人と話し合おうとするのですから、それは十分場を整える努力が必要なはずです。ちょっと邪推ですが、彼らは「話し合い」を申し込んで、それが拒絶されたとしても自分たちに有利になるという思い込みがあったのではないかと見ます。話し合いを拒否した方が単純に悪者に見えるだろうと、そういう甘い思い込みです。そのため、彼らにはどうしても話し合いたいという必死さが足りなかった。普通に礼を尽くし筋を通す努力がなかった…そんな感じを受けました。(ここらへんはtarataradiaryさんやantonianさんも同じように思われていると存じます)
 tarataradiaryさんの方の日記へコメントした際に書いたことでもありますが、私には押しかけた方々が「配慮のない文明国の人」に重なって見えていました。西洋の一方的な人類学的調査でかつて見られたような光景です。現地の人の価値や文化に気を遣わず、それらは遅れたものだと決め付け、上の立場の視点からエスノセントリックに見てしまうという、今ではかなりの批判にさらされているような態度です。(cf. James Clifford, Writing Culture: The Poetics and Politics of Ethnography, Univ of California Pr., 1986)


 他者とコミュニケートするという難しさを考慮しなかったというのは甘えです。民主的な方法として「話し合い」があるのは確かでしょうが、民主主義ならばどの場面でも無条件に話し合いが行えると思うのは、独りよがりにすぎるでしょう。そんなことをKUMAさんの記事を読んで考えていたのでした。