山上ヶ岳は一つの宗教施設

 先日来、nucさんとのお話の中で一つどうにも私が気付かなかったことがありました(何とも間抜け)。発端は私の次の譬え話です。

 …この話を、ヒンドゥーの人に牛肉をだまして食べさせ、ムスリムに豚肉を偽って食べさせて、どうだ何ともないだろうと「啓蒙」するような、そんな比喩で考えておりました。確かに命に別状はないでしょうが、何か大事なものを踏みにじる行為だと…。

 この譬えに込めた私の意図は、「啓蒙主義的立場」というものに立脚して中立普遍であるかのように思い込み、上の立場からおせっかいをするそういう方々も一つの立場にすぎず、一段高みにあると不遜に考えるのは間違いであろうということでした。ここでは「牛肉・豚肉」を食べても何ともないという「客観的知識」を「教えてやろう」とおせっかいする立場への批判を受け取ってもらおうとしていたのです。


 それに対してnucさんがおっしゃっていたのは、

 その牛肉の例でいけば、「宗教で制限しようとしている対象」は、全人類です。
ですから、正しくは、私が牛肉を食べようとしたら、ヒンドゥー教徒が集まって阻止しようとした、になりませんか。

 最初に伺った時にはピンときませんでしたし、今朝になってようやく気付いたつもりになっていますが、nucさんは

 山へ女性の立ち入りを禁ずるという(神の)命令があり、それを信じている人たちが
その信仰に関係ない人にまでその命令を適用している

 という観点で問題をご覧になっていたので、私の意図とは違った譬えの受け止め方をされていたということだと思います。価値の押し付けの主体がどちらの側にあるかの解釈が違っていたと…。


 (イダ氏たち)[価値の押し付け…女性をこの山に入れよ]>(地元の人)
 という図式で私が意図していた譬えが
 (地元の人) [価値の押し付け…女性はこの山に入るな]>(イダ氏たち)
 という図式でみるとおかしな譬えになると、こういうことだったと思います。


 さてそれで話は「お互いの価値の押し付け」であろうというところに来ます。もちろんこの側面は否めません。ですが私には両者の立ち位置が対照対称的には思えないのです。


 山上ヶ岳を単に連峰の中の一つの山と受け止めれば、そこに入山するのは万人の権利と見えるのもしかたがないことでしょうが、山上ヶ岳を一つの宗教施設と捉えればどうでしょう? その宗教施設に入って欲しくないという人の声を無視するのはそれほど容易なことではないのでは?
 建造物がなくても、あれは山自体が曼荼羅となっているそういう意味を担うところで、位置づけとしては宗教施設であろうと思います。ですから、わざわざそこへ出向いて(狙い撃って)原理同士のぶつかり合いのようなものを演出した側に、私はより強い意味での「自分の価値の押し付け」を見ます。
 どこかの街の一角に広大な施設があり、そこに人間の半数が入ることを拒まれている…ということではなく、広い山系の一つの峰にまで縮小しているそこにしか、もはや過去のよすがが残っていないのならば、それは関与しないでいるということが宗教的寛容の態度だと思います。


 それぞれの宗教的教えは、nucさんもおっしゃるように相手を選ばずすべての人間に発せられています。ですから原理主義的にそれを受け止めれば、必ずそれぞれの宗教の角逐というところに来るという惧れを抱えています。この考え方では棲み分けなど無理となります。
 知人の米人は、食事の時には宗教と政治の話はしないというようなことを語っておりましたが、近代は宗教を内面に限定することを以ってこれに似た棲み分けの知恵を働かせていると私は考えます。原理主義的に考えれば教えに忠実ではないということにもなりましょうが、考え方の筋を変えて、自分の内面を尊重してもらうために他者の内面には構わないという一つの方法を採ったと、そう思うことはできると考えるのです。


 気がついたらいつの間にか「入山を求める側」を一つの宗教として語ってしまっていました(笑)そこらへんは適宜読み替えていただけたらと思います。ここでの提案は一つ、「山上ヶ岳を一つの宗教施設と捉えませんか」ということだけです。
 いずれにせよ話がよめなかったのは私に非がありますので、その点ではnucさんにお詫びします。なお、まだ読みがおかしいとかありましたら、またおっしゃってください。善処します(笑)