「勝ち組」とか「負け組」

 「景気」という言葉が本来経済学の用語ではなく世の中の気分を表すものであるように、最近よく話題にのぼる「勝ち組」とか「負け組」という言葉も(あえて言ってしまうと)学的な言葉でも政治的な理念でもなく、ある種の印象もしくは気分的な上下概念を表すものだと思います。
(※ここでいう「勝ち組」「負け組」はブラジルでの日系人のグループ分けを指すものではありません。現在の日本社会が二極化しつつあるという文脈で用いられる用法についてちょっと考えております)


 と申しますのも、印象判断を排除してこの言葉の定義を考えてみる時、そこに明確な線引き(範囲)が無いように見えるからです。もちろん相対的な尺度としての上下だの高低だのという区別が無意味とは申しませんが、この「勝ち組」「負け組」がそれら尺度以上の意味内容を持つとはどうにも思えません。むしろちょっと前に喧伝された「負け犬」という概念でしたら(その内容の妥当性は別にして)、そこに「三十代以上・未婚・子無しの女性」という定義は明確にあります。


 はてなダイアリーでの「勝ち組・負け組」の説明では

 1990年代に日本でバブルがはじけると「グローバリゼーション」「世界標準」「大競争時代」「自然淘汰」「市場原理」などの言葉が鼓吹された。主として経済的な問題を語るときに、それらの「結果」として、そうした厳しい状況でも生き抜いて行ける業種・企業を「勝ち組」、淘汰され潰れる運命にある業種・企業を「負け組」と経済学者や評論家が言い始めた。


 さらに「個人レベル」まで下りて、企業の中で生き残れる人とリストラの対象になる人といった意味合いでも使われる。

 とありますが、現状の用法はさらにここから進み、来るべき(?)二極分化社会における上流に「勝ち組」が、そして下流に「負け組」があてはまるのは必定…とでもいうような意見が流されているのではないでしょうか? 私にはそれが「警世の文句」というよりは煽り文句に聞こえてなりません。今の自分が「勝ち組」なのか「負け組」なのかの判断ですら、気分次第ということでしかないのですから…。


 唯一時々見られる定義的なものは「年収絡み」の話です。しかしそれにしても「年収一千万でもマネジメントが悪ければ負け組」とか、はっきりしたことはどこにも見られません。どうも将来に(金銭的or物質的な)不安があれば(予想されれば)それは「負け組」というものらしいです。
 でも今までだって確実な将来の保証などどこにあったでしょう?
 先の見通せない未来というものに対して、ある時は楽観的な、またある時は悲観的な気持ちで見るのが普通の人間というものではなかったでしょうか? 結構長く続いたバブル後の不況観の中で、先の見通しがネガティブな人々が増えたので「負け組」とかいう言葉に踊らされる人が増えただけなのではないかとも考えます。


 かつての日本社会では皆「中流意識」を持っているとよく言われましたが、これもよく考えてみれば単なる気分に過ぎませんでした。自分が上流というか富裕層でも特権階級でもないと思う人々で、そうは言っても貧困層とか食うに困るとかでもないと自認する人たちが、とりあえず「中流」という無難な自己認識に落ち着いていただけでしょうし、中流というのがはっきりどういう層なのかといった定義もありませんでした。皆、自分の考える上でも下でもないから「中流」となっていたに過ぎません。
 「中流」を自認する人々が客観的に将来を楽観できたかというとそれは違うでしょう。たとえばバブルの最中の20年前に自分が中流だと思っていた大人で、当時30代40代の人ならばまだまだそれは現役世代です。その後不況もありましたしリストラにあった人だっていらっしゃるでしょう。つまり「中流」という意識に客観的な保証などなにもなく、単にそれほど将来を悲観する気分になかっただけなのだと考えます。
 それでは客観的に今は将来を悲観しなければならない状況なのかと問いますと、どうもそうも思えません。未来が見えないのは昔も今も一緒。年功序列とか終身雇用が終わりを迎えつつあるとか言う方もいらっしゃいますが、世の中の一定数の人間はずっと前から年功序列にも終身雇用にも関係なく暮らして来ています。そういう人たちが、ひたすら未来を暗いものと思ってきたはずもありません。ただ不況観が長引けば、先行きの不安を感じる人は多くなるということは確かでしょうから、そういう風潮に巻き込まれてただただ不安を煽られている人が多いだけなのではないかとも思います。


 どうしても自分の未来に金銭的自由の「確証」が持てなければあなたは「負け組」ですよ…と言われたら、自分は「負け組」なのでは(それになるのでは)ないかと暗示が掛けられる。そういう仕組みだったならば、これに振り回されるのはばかばかしいとしか思えないのですが…。