nucさんへ

 いただいたトラックバックの記事のまとめ方で(私が)少し気付いた点がありますので、そのことだけ部分的に書かせていただきます。

 一番大きい対立点は、そちらは「イダ氏と性同一性障害者が許されざることをした。特に協定に加わらなかった3人。」で、僕のとしては、「問題のあることをした人はいない。」で、食い違っているのだというのでいいのですよね。

 私としてはイダ氏たちが「許されざることをした」と「住民に代わって(その立ち位置で)」糾弾するのが眼目ではないのですよ。ただ第三者的に言えるのは法的なことだけ、と諦観しているのでもなく、傍で事態を眺めた時の倫理判断を行っているとお考えいただければ…。
 そしてそれがどのように見えたかですが、その直観的な把握が「人類学者と現地の人」という比喩で表されるものでしたから、その直覚がずれていた場合説明が迂遠というか難しいと思ったのですね。つまりそれがどう抽象化されて捉えられたかに、おそらく根っこのところの食い違いが関わるのではないかと。そこまですっきりしようと試みる場合には、それはもう並の議論を超えたような努力がいるように思えましたので、そのレベルまでやってみようというのにはちょっと躊躇するわけです。
 話を戻して、その「人類学者と現地の人」という構図で考えられた倫理的問題は「(普遍であることを無条件に信じて・背負って)啓蒙してやろうと思う側」が「自分たちの特殊性を守ろうとする側」に無理やり迫るという関係の強要です。
 正直「女性の入山の禁止を村の人の側が世界に宣している」という視点はありませんでした。(当事者ならざる者の憶測でしかないでしょうが)村の人の側に「法的に勝てる」という確信は全然ないでしょう(ここでは私有地を通過する云々はおきます)。それゆえその立場は「お願い」するか「説得する」か、あるいは「(理不尽とは薄々思っても)意地を通す態度にでてしまう」かしかないわけで、もとよりそれは立場の弱い訴えです。だからこそ必死にならざるを得ないのだと思います。強がることはできますが、それ以上のものは持てないでしょう。
 対してイダ氏の側は、メディアを連れていったことからも想像されますがここでは「立場が強い」という自認はあったと思います。法的にもですが、それより「自分たちは女性とか性同一性障碍を持った弱者」であり「男女の差別を無くすことは(社会的にも是認される)普遍的な正義だ」と考えていたのではなかったでしょうか。そこらへんの「正義を背負ったようなもの言い」が質問状の項目から私には私の判断として読み取れたのです。
 さてそういう読みがあったからこそ、「イダ氏側」が押し付けの度合いが強いと考えられたのですが、これはどちらが「悪い」というよりはどちらが「居丈高」かという判断に結びつきました。
 イダ氏側に「惧れ」がより少なく、その考えを広めずにはおかないという考えが強いという認識ですね。それゆえ、そういう態度はより傲慢であり、対話を掲げているのはポーズであって、(修験にある程度の思い入れもありましたから)イダ氏側が他者と(初めて)接する際の気遣いに欠け、それは倫理的批判に値するとそう思えたのです。
 今日はこのぐらいで…