nucさんへ2

 こっそりお答えの続きですが、すごくいい言葉が今朝目覚める直前に浮かんでいたんです。でもそのフレーズは失われてしまいました。思い出そうとしても出てこないので、地道にちょっと続きでも。


 私には(イダ氏の主張とは逸れているかもですが)これが性同一性障害の方に深く関わった問題とはどうにも見えません。で、男女差別の次元で考えるわけですが、男性に許される同じポジションに女性を置くべきという言辞は粗く考えれば尤もに聞こえますが、細かく見てそうかなと疑問を感じることもしばしばです(nucさんがその立場に立っておられるとも考えてはおりません 為念)。
 大峰山の女子禁制は、あくまでも修行の場としての意味付けの下にあります。そして修験が男の験者だけをつくる以上、それは(少なくともそのレベルで)女性を蔑視するための女性不可侵ではないと思います。そこにある意味付けは、男性優位の思想を広めるためのものではないということですね。ユタやノロ、ゴミソやイタコなどの祭祀者が女性に限られているのと変わりません。だから最初からイダ氏の側の行いたい行為は的外れに見えるところがあります。それは修験の聖性の意味を感じない者には「無意味」な禁制であり、もとより女性の権利の回復という視点で見るには無理があるのです。
 ちょっと視点を変えてみると、山に登った女性三人の行為は、修験の意味付けに対してはそれを毀損するという行為になり得ますが、それを信じぬ者にとっては単に山に登ったということでしかないでしょう。もし彼女らが何らかの達成感を得られたとしたら、それ自体「修験の意味世界」に絡め取られたようなものです。村人の側の女性に登って欲しくないという欲求に感化されています。だからこそどちらにせよその行為は(涜聖以外の意味がないとすれば)、一方的に修験に信を置く者を傷つけるだけでしかないのです。


 この構図ではもともと勝負になりません。村人の側の意味は宗教的次元にあり倫理的なものではないですから、そこでは公的な保護も得られないのです。だからこそそれは「村人側の価値を毀損するだけ」という別の次元において倫理的批判を浴びるのだと思います。


 イダ氏側が、その意図するところのように女性や性同一性障害の人を差別し、卑しめる意図が明確であるような場(どこかはわかりませんが、そうメディアが捉えそうなところ)に対して毅然とした態度を取るなら、これほど私も反発は感じなかったと思います。彼らがあまりにも(おそらく無自覚に)彼らの正面の敵ではないと思われるところへ一方的な攻勢をかけたというところが、村人側への同情などを呼ぶのでしょう。


 どれだけ長いスパンで見るかによりますが、生物種は滅亡を免れない存在だと思います。変異・変容して異種になったとしても、それは見方によっては滅亡です。しかし短いスパンで見れば、淘汰って何のこととでもいうようにそれらは共存もできますし、時には共栄すら望めるのです。価値の興亡も同様かもしれません。