悪魔がそれを行った

 私の中に悪魔が入ってきて殺人を行った。悪魔は証拠の隠滅と偽証をさせたが、今や私の中から出て行った…。
 広島小1殺害:弁護士が明らかにした容疑者の供述内容

 接見した弁護士が明らかにしたフアン・カルロス・ピサロ・ヤギ容疑者の供述内容は次の通り。


 (11月22日、自宅の)アパートの前に座っていたら、女の子が通った。故郷に残した娘は、こういう姿であろうと思って声をかけた。その後、記憶がない。気付いたら、女の子が亡くなっていた。びっくりした。自分の中の悪魔が箱に入れて(遺体を)隠させようとさせた。


 昨日(11月30日)からずっと女の子について祈っていた。今朝(1日)悪魔が抜けていった。本来の自分に戻った。


 今は女の子に謝りたい。女の子の両親にも謝りたい。それから日本中の皆さまにも謝りたい。出来るなら直接謝りたい。


 (アパートの)階段の上がり口の所で、右手を挙げて「オーラ(スペイン語で『こんにちは』」と女の子に声をかけた。女の子は「分からない」と言った。(女児の)名前を聞いた次の瞬間に、何かに突き刺されたような感覚になった。それで悪魔が自分の中に入ってきて体を動かした。


 悪魔が箱を取ってくるよう指示した。女の子を上がり口に置いたまま、部屋に段ボール箱を取りに行った。上がり口で箱に詰めた。テープで巻いて、家の裏側のごみの置いてある所に捨てに行った。(遺体発見現場の空き地へは)捨てていない。ランドセルは女の子が死んだ時、体から外れていた。袋に入れ、JR矢野駅近くの土の所に置いた。靴下は両方とも箱に入れた。


 殺すつもりはなかった。自分にも娘がいて歩けるようになる前に日本に来た。悪いことをしようと思って声をかけたのではない。ガスコンロはアパート1階の倉庫辺りに置いた。殺害を疑われて隠したのではない。盗んだと思われるのが嫌で隠した。(中略)


 いつも冷静なのに、その時は悪魔に反応した。自分ではない状態だった。否認していたのも悪魔がそう言った。

 (毎日新聞 2005年12月2日)


 「魔がさした」という言葉があります。たとえば電車の中の痴漢行為で、スーパーマーケットや書店での万引き行為で、普通に暮らしていた者が触法行為を犯し、それが見つかったときによく聞かれる言葉でもあります。この言葉は何らかの(超自然的な)外的要因が、人に罪を犯させることがあるという古い信憑とともに残ってきたものですが、人間が犯した行為の(少なくとも一部の)責任を外在する超自然的存在に帰する考え方は数多くの宗教伝統にあったとされています。
 「魔が差す」という言葉自体は、おそらく仏教の「魔」に由来するものでしょう。それはサンスクリットの「死」(あるいは「殺」)を意味するMaraの音写から漢語にもたらされた語で、「魔羅」とも言われるものです。「魔」それ自体が煩悩とも死ともされたりするように複雑な性格(用法)を持ちますが、「人の生命を奪い、仏道修行などもろもろの善事に妨害をなす」という根本性格があるだろうと『仏教辞典』ではまとめられています。
 仏教哲学的思弁(『大智度論』等々)で扱われる「魔」の概念よりも、仏伝などで見られる「魔」は幾分わかり易くというか擬人化されていて、釈尊の成道・開教・涅槃を妨害する中心的存在として表されています。いわゆる「邪魔」をする存在ですね。また「魔(羅)」は諸悪・諸煩悩の根源ともされ、特に修行の一大事である性愛禁忌と絡めて考えられたことは、それが男根の異名となっていることからも明らかでしょう。この性的欲求の外在化は、西洋で夢魔インキュバス)が色欲の淫魔として描かれているのとパラレルであると考えられます。


 さてこの「魔」のようなものを用いた(自分の)行為の説明は、責任の主体を外在化させてその責任から免れる(もしくは軽くする)ものであり、きわめて他罰的で無責任なものになりがちです。第三者的にそれを「人間一般の弱さ」というものの説明に用いる場合にはある程度もっともと思えるときもあるのですが、特に同じ信仰(信憑)を共有していない場合などには、それは馬鹿げた自己保身にも見えてしまいます。
 ただしこうした責任の外在化は宗教的なものに限りません。普通に通用していると思えるそれは、「社会が悪い」とか「環境が悪かった」、「幼少時に悲惨な体験をした」とか「差別されていた」云々と結構挙げることができます。人間存在を社会的環境の結節点として見る時、これらの責任の外在化が一定の共感を得て、情状として酌量されることがあるのはご存知の通りでしょう。ただこれを無制限に行った場合、「悪魔がやらせた」という言葉と変わらず「自分(個人)には責任がない」というところへ至ってしまうのも自明で、どこかに線引きが絶対必要だと思います。


 今回のピサロ容疑者の場合、女児にいたずらして捕まっていたという過去の行為が確認されれば、それこそ悪魔が何度も何度も彼を訪れていたということになるでしょう。それは「魔が差す」というよりも「魔が住む」ところを持つと考えたほうがよいように思います。
 罪を償えとは申しません。償いようがないですから。いっそ「魔の住処」を消してしまった方が良いのではないかと、感情に任せて考えてしまっている自分がおります。