気付け薬

 フランス、ロマネスクの旅を終えて帰ってこられたid:antonianさんが旅先で「目の前が暗くなり、気がついたらぶっ倒れ」られていたとのこと。もちろんちょっとの間の節制が必要ですし、医者に一応調べてもらうことは必要だと思います。たいしたことなさそうであっても、何の理由もなく意識を失うことはないのですから(>antonianさん 為念)
 さてその話からコメント欄で気付け薬のお話が…。在仏のま・ここっとさんなど気付け薬にお詳しいようですが、コメント欄が長くなっておりますので自分のところから少々その話に載らせていただきます。


 何年前になりますか、テレビの番組でフランスの気付け薬のことを採り上げたものを見たことがあります。調香師の方?がいくつかの気付け薬を調剤されて、それをとても素敵な容器に入れて紹介されておりました。この容器はヴィネグレットと呼ばれておりましたので、ヴィネガー(酢)に関わるものだなとその時も意識しておりました。そしてその後ブリュノ・ロリウー『中世ヨーロッパ 食の生活史』原書房、2003という書籍の中で「酢と医療」の関係を知りました。vinaigre(酢)を嗅がせるというのは、酢に考えられていた「冷やすもの」としての性質を利用した医療行為だったのです。ヨーロッパ中世の医療では、人体の各部分や世の中のあらゆるものに四大元素に関わるような属性を考え、その属性のバランスが人体において崩れることが病であり、足りない属性を補うことが治療であると考えられていました。酢はさまざまな病気、つまりバランスの失調の原因となる「過剰な熱」を冷やすとされておりましたので、それを嗅ぐことが応急処置として適当と理屈付けられていたのですね。その医療の記憶がどうやら気付け薬まで続いていたようです。


 ただしvinaigre(酢)の他にsel(塩)系の気付け薬を表す語もあり、手近な辞書では"sels (volatils) anglais"という「気付け薬」を意味する言葉がありました。そういえばと思い出したのが『ギャラリー・フェイク』31巻の「貴婦人のセル」で出てきたフランコン・ド・セルです。サラがモナコで香水瓶と思い購入したものがそのフランコン・ド・セル(気付け薬入れ)で、19世紀にはフランスで人気商品だったと紹介されています。この瓶の中には結晶のようなものが入れられ、その説明として「セルとは鼻をつく刺激の強い匂いをもつ薬のことです」と語られています。
 そしてそこではビネガーのセルというものが出てきて「当時も炭酸アンモニウムや酢酸塩の結晶を入れていた」とも言われていますが、確かに辞書でも"sel de vinaigre"(酢の塩)に「(酢酸を加えた)嗅ぎ薬、気付け薬」の訳語があります。塩も、酢も、というわけでしょうか。(検索して見つけたこちらのサイトの7月22日と23日の記事の言及もご覧ください。ちょっと詳しく調べられております。ここでもギャラリーフェイクに言及されてますね)


 さて私がテレビで見たヴィネグレット(vinaigrette)ですが、私の辞書には酢油ソースとあるばかり(笑)。いわゆるフレンチ・ドレッシングですか? おかしいなとこれまた検索して、こちらのサイトで次のように書かれているのを見つけました。

 ヴィネグレット(vinaigrette 仏)は、料理用語では酢を使ったソースやドレッシング のことですが、アンティーク用語では気付け薬入れのことです。ウエストが極端に細いドレスのせいもあるでしょうが、当時の男性にとって美しい女性とは、弱々しいものという概念がありましたから、上流階級の女性たちは、ことあるごとに卒倒(演技?)したようです。そしてその時必要な小道具がヴィネグレットだったのです。美の世界を追求するような毎日を過ごしていた人たちにとって、卒倒そのものが美しい仕草でしたから、それを演出する小道具のヴィネグレットはそれに相応しい美しい物でなければならなかったのでしょう。ヴィネグレットの中には鼻につ〜んと来るローズウォーター(酢にバラの花びらを入れたもの)*1などを布に染みこませて入れておいたようです。


 気付け薬の容器に対してヴィネグレットという言い方とフランコン・ド・セルという言い方、どちらがよりポピュラーなのかはわかりかねますが、この二つの言い方は薬として入れる「酢酸などの液体をベースにしたもの(スポンジに沁みこませる)」と「塩化アンモニウムなどの結晶(固体)をベースにしたもの」の双方があったことから出来たことは確かではないかと思います。
 また卒倒につきましては「上流階級の女性の演技説」の他にも、コルセットなどでウエストを極限まで締め上げていたために時折「呼吸困難になっていた説」というのも見かけました。"sels (volatils) anglais"(イギリスの(揮発性の)塩)という言い方からは、この気付け薬としての「(香のついた)塩」(「しお」というより「えん」と言った方がよさそうですが)の風習がイギリスから渡ってきたかもしれないと想像が広がります。


 antonianさまもぜひ(病院に行かれた後で)アンティークのヴィネグレットでも入手されてはいかがでしょうか? もちろん入れるのは酢油ソースということで…。(vinaigretteで検索すれば、死ぬほど基本ソースのレシピが読めます 笑) 
 (お身体だけは笑い事ではなくお気をつけください)

*1:あなたに神の祝福を…。今気付きました