雲のむこう、約束の場所(感想補遺)

 昨日は視聴後一気に思い付きを書きましたが、読み直して説明不足ぎみかと思いましたので少々補います。
 Wikiの「セカイ系」の項目にも見られるように、一般にこの作品はセカイ系とされております。セカイ系と言われるジャンルが私には実はよくわからなかったりするわけですが、個人的にその説明としてはhummingcrowさん@萌え論の「セカイ系論」が腑に落ちると思っています。ただしこの論でいけば『雲のむこう〜』はセカイ系ではないとなりましょうし、yasudayasuhiroさん@原野商法1997でも昨日の記事で

監督は「セカイ系」といわれるものを描かなかったわけである。「セカイ系」を否定した。とも言えるだろうし、ベターな話をやった。とも言える。

と語られています。
 『雲のむこう〜』がセカイ系であるかどうかには議論があると思いますが、「世界」と「個人」が直接に関わっているように描かれているのは確かでしょう。それゆえ私には若干そのエンディングの描き方がいただけないと感じられたのでした。 その一番の理由は、あれもこれもというエンディングが「軽さ」を生んでしまったことにあると思います。


 「世界」と「ぼく」が対峙している状況、そしてそのどちらを選ぶかという問いが突きつけられている状況があるとします。ここで「世界」を破滅させた場合には「ぼく」という個人(内面)の重要性が際立ちます。また「ぼく」が何もできず、場合によって破滅などしたときには「世界」の得体の知れない大きさといいますか、その恐ろしさが印象付けられると思います。
 『最終兵器彼女』などの世界破滅型は前者の余韻を持つと感じますし、『ほしのこえ』はむしろ後者でしょう(破滅こそありませんが、手も足も出ない状況が淡々と続きます)。
 セカイ系論としてではなく作劇上の観点みたいなものから見て、「世界」と「ぼく」の対峙の構図から「どちらかの強調」が導かれなかった場合、どちらの印象も薄くなってしまうのだと思います。それが『雲のむこう、約束の場所』のラストに昨日感じた不満の正体ではなかったかと考えるのです。


 安易な作劇かもしれませんが、『雲のむこう〜』のラストで佐由理が失われてしまっていた場合、塔が破壊されてもされなくてもそれは浩紀(たち)の敗北となり、ちっぽけな個人には手も足もでない「世界」とか「状況」というものが際立ったでしょう。また佐由理を救えたとしても「世界」が並行世界と転換されてしまうなどの終末を迎えたならば、それは二人の心の結びつきの重要性を強調するものとなったと思うのです。
 結局はないものねだりなのでしょうが、あれもこれも救われる(北海道の中心部や佐由理の三年間の記憶は失われましたが)というオチのつけ方が、全体のカタルシスを薄めてしまっているような、そういう感じだったのです。以上が昨日の感想の補遺です。