傍で見るもの(大峰山)

 nucさんの日記(12/7)大峰山の今回の件をまた扱われていましたが、今までとは少し違う方向から書いてみたいと思います。


 最後のあたりのご意見をまとめさせていただきますと

 任意の集団における性差と基底的な社会における性差を分けて考えて、前者は時に性による違いを(集団として)認めて動くことも「あり」だが、後者は様々な集団を含む総体として、そこで性差による区別を無くすという大前提があるならば(個々の集団が)性差を設ける制度をその場で主張することはできない。

 となるかと思いますが、これは納得できる原理的な考え方でしょう。一つの正論です。


 さてそれで次に問題となるのは山上ヶ岳という場での信仰に対して、その場を(女性にも)解放するように求める行為はどうなのかですが、もしこれが社会の総意として迫られるならば(そして山上ヶ岳が公共の場として認知されているのならば)、村の人の考えがどうあれ信者の側が原則的には勝てないことだと考えます。それこそそういう事態にでもなれば、立て籠もった信者に対して機動隊が出て放水でもするでしょうか…。
 ただし今回の件はそういうものではなかったとも考えます。むしろそうした社会の意志(そしてメディアによる輿論や公的機関の判断)をあてこんだ「一部の集団」が他の「一部の集団」に対して挑んだという図式に見えます。そして前者の集団は社会の同意を勝ち取ることにむしろ失敗したようにも思えます。これは何故なのか…。


 nucさんは次のように書かれています。

しかし、今回の事件の場合は下の次元、それどころか世界に対しての要求ですから、「価値観だから尊重せよ」というのがそもそも間違っています。

 その立場は「お願い」するか「説得する」

ことで(拡大された)集団(概念の)内部に参加してもらうのはよいにしても、それを超える行為に対して僕が批判的なのは、逆にそこに「人類学者と現地の人」がそっくりそのままひっくり返った同化主義の影がみえるからでしょう。

 お書きになった文脈では「価値観だから尊重せよ」というのは信者−村人側の意見でしょうが、イダ氏の側の目論見が成立しなかったのは、「(彼らの)価値観を尊重すべき」という第三者の意見が多かったからであると思います。そしてこの第三者的意見は、必ずしも「女人禁制を守るべき」という意見に「同化−同意」しない立場からも出ていたのではなかったでしょうか? つまり信者−村人側の集団の「内部」ではないところからもイダ氏の側の行為に対して倫理的批判がでていたということです。


 もしイダ氏たちが(少なくとも傍から見てそれなりと思えるような)手順を踏んで、何度か話し合いを持ったり、丁寧な言葉を使ったり、(たとえポーズでも)辞を低くして粘り強く交渉するということをやっていたとしたら、村人側が頑なに拒否を続けたとしてもおそらく輿論は少しずつ味方につけていけたことと思います。そして社会の総体(の意志)がイダ氏側に傾いてきたとしたら、そこで初めて原理原則を背景に持っていることが限りなく有利に働いたことでしょう。あるいはそこらで何らかの公的ポジションの介入があって、一気に女人禁制解除まで持っていけたかもしれません。


 私たちの社会は意外に寛容です。公共の利益というもので土地収用が図られた成田空港周辺でさえ、未だに数件の農家は存在し、成田空港の整備は完成しておりません。もちろん幾分か左翼の宣伝という面も働いたでしょうが、何より政府側が居丈高に着工を強行したことなどに対して、人々が倫理的批判の感情をもってしまったことが結局後々まで響いたのだと考えます。


 どんなに合理的で自明な原則があったとしても、法的判断とは異なって、人々の判断が必ずしもそれを選ぶとは限りません。やはり、村人の側が女人禁制の区域を拡大しようとしているのではないこと、その場で価値を守ろうとしているだけであるということ、イダ氏側の態度が居丈高に見えたということ、などなどが相俟って輿論は彼の側につかなかったのではないでしょうか。
 あえて山上ヶ岳に行かなければ、信者−村人の側の(nucさんが言うところの)同化主義は働きません。この点から「ほっとけばお互いに迷惑かけずに棲み分けられるのに」という判断の方が強く思われたのかなとも見えます。この種の判断が私たちの社会の倫理的基準として一つあるとは思われませんか?


 今回は私の判断や考えの直接の方向というより側面から少し書いてみました。