責任というもの1

 日記をどうにかこうにかここまで書いて来て(最近は勢いに欠けていますが)、今年自分で一番何だかんだ考えていたのは「責任」ということだったのではないかと思います。もちろんスパッと切れよく語るというよりも、うじうじ行きつ戻りつしながらそれに関することを書くことに(意図的というよりは流れとして)なっていたと今顧みて思います。


 最初に「責任」について触れたのは、靖国神社問題について書いている時でした。またちょうどその頃、JR西日本鉄道事故に関して思うところを書き、この二つが図らずも頭の中で絡んできて次のように書きました。

4月30日 責任をめぐって

… 
 ですが、この事件によって一般のJR社員全てに責任を問うべきでしょうか?たとえばJR九州で昨日貨物列車を運転した人や、JR北海道で今日人事を担当している人や、JR東日本で明日常磐線の車掌をする人などに責任があるとすべきでしょうか?

 そこまではほとんどの人が考えないはずです。身内のこととして自分から責任を感じる人はおられるかもしれませんが、第三者がそれを押し付けようなどとは…。
 それは、彼らが尼崎の事故を起こすことも(防ぐことも)できなかっただろうと容易に理解できるからです。


 責任は、当事者が、避けられれば避けられたあることを(自分の意志によって、もしくは過失によって)犯してしまった時に発生するのではないでしょうか?


犯罪者の家族は犯罪者か?
 もし自分が学生で、クラスに何らかの犯罪を犯した人物の子弟がいたとして、その人にどう対したらいいでしょう?もちろん最終的には相手次第、相性次第のところがあります。必ずしも仲良くできないかもしれませんし、それはそれで仕方がないこととは思います。


 でも一つ言えるのは、最初からその人を排除する方向で接する、もしくはいじめるなどということがあるのならば、私は気分が悪くなるということです。少なくとも私はそれは倫理的にすべきでないことと学習してきました。犯罪者の家族になるということに本人の責任は問えないからです。


 つらつらと書いてきましたが、先の大戦のことと「日本人だから謝れ」みたいな問題を、上記有責性に照らして考えると、私の結論は自ずからはっきりしています。


 ちょうど不幸にも(今度はJR東日本で)鉄道の事故がおきてしまっていますが、今回の件の方がより構図は見易くなっていると考えます。つまり事故における責任の範囲がどこまで問えるか(誰が当事者でどこまで責任を負うべきか)というところで、尼崎のケースよりも今回の方が、どこまで人災と言えるのかがきちんと問われなければならないと思うからです。


 私は際限なき責任というものは無いと思います。そして上記引用で書いたように、責任は「当事者が、避けられれば避けられたあることを(自分の意志によって、もしくは過失によって)犯してしまった時に発生する」と考えています。それを越えた責任は、あくまで自分で引き受けたいと思うときに生じる「道義的責任」となるでしょう。そしてそれは第三者が押し付けるべきものではないはずです。


5月09日 責任をめぐって2

道義的責任
 話を法的責任から始めましょう。近代法罪刑法定主義と事後法の禁止を重要な理念として持ちます。これは、恣意的な法の適用(責任追及)を排除するために重要なものです。これらの前提のもとに、責任とは批難可能性として考えられるものです。あくまでも「責任」はルール違反という形で(予告され、それを破らない行為の選択ができた者に)のみ発生します。

 もちろんルールが完璧なものでない以上、ケースによっては不備もあるでしょう。ですが私は現時点でこれ以外のやり方で明確な「責任」を問うのは説得的ではないと考えます。神ならぬ身の人間が他者を裁くというのは非常に重い行為なのですから、説得的ではない理由で他者を責めるのに躊躇した方がよいとも思っています。


 道義的責任は、どんな場合でも誰にとっても等しく自明というものではありません。その意味で普遍的・論理的ではない面を持つと言えるでしょう。もちろんそれを自分で選択した人にとっては明らかであり論理も持ち得ます。ですが、他者にそれを普遍妥当性を持つものとして強要することはできません。


 それはある意味「内輪の論理」に支えられてあります。そして逆に言えば、道義的責任の感じ方を共有する人々がある意味「内輪」になっているといえるのではないでしょうか。
 それが内輪のものであるがゆえに、道義的責任は暗黙の了解を前提にします。様々なケースにおいて、それがどのような責任なのか、責任の適用範囲はどこまでか、程度からくる責任のあり方(量刑的なもの)はどうあるべきか、批難できる主体の資格はどの範囲か…全然明示的ではないです。
 私が危惧する点は、少なくともそれらが明示的でない場合、道義的責任を迫られる者は有効に抗弁できませんし、どこまで責任追及されるかあまりにも恣意的だというところです。


 それでもなお道義的責任という考えが存在するのは、そしてそれを自分にも他者にも問いたくなることがあるのは、道義的責任が自らの意思・選択としてあり得て、自分でもそれを自らに課すことがあるからではないでしょうか。
 私は道義的責任のレベルに自分なりの(内輪の)正しさはあると思いますが、それを超えた正義なるものが関わる次元ではないと考えます。だからこそ(自戒も含めて)それを他者に適用する(押し付ける)ことはできないだろうと思っているのです。(もちろん説得しようとすることはできますし、相手にそれを考えさせる試みは無意味ではないでしょう…)


 大きな事件・事故が起きた時、ややもするとメディアは犯人探しに狂奔します。そしてとにかくあれが悪いこれが悪いと後付けで責任を言い立てるような感があります。とりわけ「道義的責任」という広い意味での責任を敢えて押し付けようと強弁するのには、閉口させられることもしばしばです。(そのくせ自分たちの責任を広義に解しようとはしません。うんざりです)


 責任の範囲を明確にするということは、事情・状況を丹念に調べれば取り立てて特別なことを知らなくてもできることだと思っています。その責任に対してどういう罪があるか等々にはある程度の法的知識が必要かもしれませんが、基本的には一定以上の情報の集積によってそれは見えてくるものでしょう。
 ですから、メディアが為すべきは「糾弾」ではなくその時点でできる限りの情報の収集と開示ではないかと、少なくとも私はそれを期待します。コメンテイターが思いつきでいろいろ喋るのにはあまり興味が湧きません(興味は湧かなくても、怒りが湧くときはたまにありますが 笑)。煽りはやめて、原点に戻って欲しいなと思っているのです。
 今年のまとめとして、この話はもう少し続けたいと思います…。