責任というもの2

 責任を考えるということは、最低限自分の倫理、言い換えるなら正義というものを考えることに他ならないでしょう。振り返ると私はかなり言葉を費やして「日本人」として問われる責任について書いていました。国民とか民族とかいう枠組みで正義を考えることはかならずしも一般的に必要ではないかもしれませんが、個人的にしばらくの間日韓の関係について考えて参りましたので、これを結論づけたい要求が私的にはあったのです。


5月18日の日記 ナショナリズム4

日本人は謝罪すべき?
 では「日本人は謝罪と賠償をすべきだ」という言葉には、何がしかの「正しさ」が最初から含まれているのでしょうか?


 私にはそうは思えません。これもまた猫に勝手さを求める言葉と同じレベルの言明だと考えます。これが確からしく思える方々の頭の中では、「日本人は有罪である」という無条件の前提が強固にあるのでしょう。だからこそ(隠された)同語反復としてこの表現が通用しているのだと思います。「日本人は有罪である」というのは誰もが疑うことの無い前提ではあり得ません。そもそも日本人というものを構成するメンバーは固定的ではありません。極論すれば毎日入れ替わってゆくものです。そういうカテゴリーに対して、厳密に責任が問えるはずもないでしょう。


 またいかなる意味でも、私は私が生まれる前の「国籍が同じ人々の行為」によって断罪されることに同意しません。その昔の行為というものの黒白は、歴史(もう60年も前のことですから)の検証に任せなければなりませんが、それが功であれ罪であれ私が自分の意志でどうこうできたものではありませんので…当時の責任を私が引き受けるつもりはありません。
 罪が遺伝するとでも思わなければ、そういう馬鹿なことは主張できないはずでは?


 繰り返しますが日本人というカテゴリーは、法的手続きで加入も離脱も可能なものです。日本国籍を有するうちは有罪・有責で、日本国籍を離れたら無罪なのでしょうか?また、昨日まで被害者だと言って日本人を責めていた朝鮮・韓国・中国の人などが、今日日本国籍を取得したら、ここから罪人として謝る側にまわるべきなのでしょうか?


 そんなのはあり得ない話でしょう。


 正義について何か書くときに最近よく引かれるロールズですが、彼の正義論はとても単純な原理で構成されています*1

 1 各人は基本的な自由に関して最大限の権利をもっている。そしてこの権利は、他者にとっての同様な自由への権利と両立する平等な権利でなければならない。
 2 社会的、経済的な不平等は、次のような条件の下でのみ許容され得る。(a)それらの不平等が万人の利益になることが期待できる限りにおいて。また、(b)それらの不平等を生み出す地位や役職に就く可能性が、万人に開放されている限りにおいて。

 第一の原理(自由の原理)に関して、この「自由(liberty)」という概念が「自分自身の善の観念を持ち、それを実現しようと努めること」と読むことができ、その「善」は自己自身の価値に関する意識、すなわち自己に対する尊敬(self-respect)に基づくものであることは、ロールズ研究においてつとに指摘されているものです*2
 少なくとも私は、自尊の念が善を観念する基底にあるという考え方には同意いたしております。したがって、ある意味その筋から次のようなことを考えていたのでした。


5月28日の日記 自国嫌悪

 自己嫌悪というのは一見良心的な装いがありますが、その実、単なる欺瞞で建設的ではないものになってしまいがちです。自分がやってしまった行為が恥ずかしくて、自分でそんなことをやった自分が嫌いで、それで自己嫌悪となるわけですが、結局それはいかにも第三者的視点で自分を糾弾するだけで、むしろ反省につながらないのではないかと…。


 そこで行われることは、自分を嫌う自分というものを生み出し、その部分にすべての自分(自尊心)を仮託して、「本当の自分」はこんな恥ずかしいことをする自分とは違うんだと自分をごまかすことではないでしょうか。


 でも結局自分をやめるのでない限り恥ずかしい自分も自分です。ごまかしたって何にもなりません。ごまかせているのは自分の頭の中だけで、他者の視点から見れば何もごまかせていないのです。


 さて、私は「日本を卑下する日本人」像(一部で反日日本人と呼ばれるような類型の方々)の中に同様の形の欺瞞があるのではないかとふと思いました。

 ここでも必ずしも「国」に拘ることはないのではないかと言われてしまうかもしれませんが、私の現実の中ではこうやって整理する必然があったのだなと、今顧みて思うのです。

*1:J. Rawls, A Theory of Justice, Harvard University Press, 1971, p.60

*2:たとえば、岩田靖夫『倫理の復権 ロールズソクラテスレヴィナス岩波書店、1994、p.27など