日本を考える難しさ

 言い古された感もありますが、私たちが日本のことを語る時にはいくつかの形式的な難しさが考えられます。
 まず、それは自ずから「日本」という語で表すある意味内容を前提とします。しかしこの内容こそは、その語りにおいて姿を現さねばならない部分を持つものであるのです。よりわかりやすく、たとえば「日本文化」について申しますと、それについて語り出すまさにその時に何らかの「日本文化」のイメージがそこでは暗に前提とされていて、もし語る途中で「日本文化はない」などの言葉が出るとしますと、それはまさしくnullにpointerをあわせてしまうことになるでしょう。ある種の転倒した先取りが避けられないということですね。
 また、私たちがそれを語ることにおける自己言及の問題も微妙に関わって参ります。日本を語るときにそこに帰属する人間を無視し通すことはできませんから。そういう意味で、はっきり日本人による日本人論というものはある種の危うさを始めから含んでいるのかもしれません。


 ただこういう話はあまり拘泥しすぎても意味がありません。喋っている本人が目を眩まされかねないものです。実際形式主義的に拘りさえしなければこれらの難しさ、暗黙の前提も、隠れたメタ位置も、事実上乗り越えられているのですから。


 これは私たちの自然的態度において「日本」や「日本文化」が、外部から批評するものではなく内部において生きる場として、つまりそれらが根源的な臆見として与えられているからであろうかと考えます。もともとそれは「対象」として外在化しきれないものを持っているということです。
 ただそれが「日本」という範疇で括れるのは、あくまでも近代国家としての日本が成立して以降の話になるとは思います。それにしましても私たちはその「日本」に生まれ育っているわけで、すでに十分巻き込まれているのです。(もはやのがれられぬぞ…)


 昨年、大峰山系天上が岳の女人禁制問題でid:nucさんに突っ込んでいただいていた頃(11/15の日記以降の一連のもの)、私は自然に伝統擁護派であったと思います。意識したわけではありませんが。振り返ると確かに感情の側面はありましたし、こうしたものを捉えるところには好悪や愛着といった次元が絡んでくるということは自覚させていただきました。


 良くも悪くも私たちが「日本」を語るということは当事者性が根底にあって、それが微々たる力であっても、この日本の行く末の決定に関わっているということなのかとも思います。


 余談ですが、某サイトで

 Japanese Only
(日本人以外はお断りってこと)

 というジョークにしてもブラックな記述がありましたが、いくつかの言語において「その国の人」を表す語と「その国の言葉」を表す語が同じであるというのはとても示唆的であると思いました。案外文化的範囲などのものも、言葉が鍵になっているということはありそうです。もちろん多言語の国も今や多いのですが…