日本人論
格差社会到来説も一つの日本論の支流かもしれないと思っておりますが、これは一見従来多かった日本人同質論とは異なるようで、実は前提として「かつての同質の日本」というものを置き、そこからの変容を語るものですから案外同じ穴の狢ではないかとも見えます。
日本人論が会社経営などにおいて特殊同質論として流行っていた頃、日本独特の労働慣行としてさかんに言われた年功序列賃金、終身雇用、企業別組合などの制度が、実際は日本の労働人口の四分の一を満たさぬものであったということは別府春海氏らによって何度も指摘されていましたが、それが流行の日本人論に影響することは少なかったでしょう。それと同じで、データがある実証的な研究というより勢いづいている説が幅を利かせているということなのかもしれません。
日本人論が流行るのには、たとえば占いなどで自分がどういう類型とされているかを面白がって(でもどこか真実らしく)読まれるのに通じる面があると思います。また筆者が「外から」日本を見ている場合には特に、「他人の目を気にする」(どう見られているか気になる)という意識も働くでしょう。この場合、自分がどうであるかよりも自分がどう見られているかが問題でして、そのせいか愚にもつかないような俗流の決め付け日本人論に対しても真剣に怒るとか反論するとかいう行為は妙に少ない印象があります。
また根強く残り自己認識に取り込まれるような日本人論には、自分のことをどう見て欲しいかという願望のようなもの、そしてどうあるべきかという規範のようなものも関わって来ていると思います。冷静にそれを捉えるべきだとは思いますが、無批判に同質論を語る側に対しどうも反論する側も熱くなってそれを否定するようになってしまうと言いますか、どうしても話は「全か無か」の方向に行き易くなるようです。
おそらく現実は両極の間にひっそりと息づくものでありましょう。一つ二つの「包帯のような嘘」を見破ったからと言ってそれで世間を見たような気になってはいけないと、これは自戒を込めて思います。
日本人論における規範的あり方というものは確かに認めることができると私も思います。ただそれをイデオロギー性とまで言ってしまう、もしくは国家的神話の現代版としてしまうと、それも言い過ぎなのではないかと私は感じます。
たとえばメルボルン大学名誉教授(極東史学)のシドニー・クローカは、日本人論や(その変種とも捉えられる)日本文化論などに、十八世紀後半から十九世紀にかけての国学派の学者たちによる国家イデオロギーが今なお色濃く反映していると見ます。
日本および日本人が特殊独特であるという考え、日本社会は一種の家族のようなものだという考え、日本民族は同質的だという考え、日本語の言葉には魂があるとするコトダマという考え、日本社会はタテの構造をしているという考えなどがその例である。
(杉本良夫、ロス・マオア編著『日本人論に関する12章』ちくま学芸文庫)
また彼によれば「集団への献身、家族主義的経営、タテの従属関係に基づく社会組織」などといった「日本の伝統的価値観」は多分にイデオロギー的なものであって、それは1937年の文部省による『国体ノ本義』において頂点を迎えるものであるとされます。
こういう研究が大事なのはもちろんですが、ここではおそらく「官製」の押し付けられたイデオロギーとしての日本(人)論しか射程に入っておりません。試験管の中の試薬とは異なり、社会科学では与えられたものだけの組み合わせ、反応以上に、それを受け止めた人間が逆に諸説にフィードバックするところを持ちます。
ですから、それも含めた日本人論という大枠を考えていかなければならないのだと、そう思うのです。反応の連鎖ということも考えるとすると、私も単に階層格差論を不確かだと否定するだけではいけないのかなとそんなことを考えるようにもなって参りました…。