おしりでの日本文化体験?

 君のおしりを日本化しよう!(Japanize your ass!) by iMomus

 イギリスの戸外のトイレ(私が学生だった当時アバディーンの多くの共同住宅はまだ地下共同トイレだった)やパリの酒場のしゃがんでするトイレを良く知っている者としては、日本のレトロなトイレに相当する西洋のトイレは経験済みだった。私が経験したことがなかったのは、その(日本の)未来のトイレのようなものだった。私が最初にウォシュレット体験をしたのは1998年のことである。それは何か滑稽なものであった。当時私はKahimi Karie(比企マリ)とCorneliusのマネージメント会社の3D Corporationにいた。私はお尻を便座に降ろし、そして飛び上がった:便座が暖かかったのだ。その感触は快いものであったが、同時にちょっと不安を感じさせた。バスルームに電気機器!それは西洋ではタブーなのだ、妙な低電圧の髭剃りのコンセントを除けば。次に私が気付いたのは、LEDディスプレイのついたスター・トレック風の電子コントロールパネルだった。すべてのボタンは日本語で(説明が)書いてある!どれで水を流せるのだろう?私はボタンを適当に押してみた。一筋の温水流が私のアヌスを叩いた。なんてこった!私は他のボタンを押した。水が流れる音がバスルームに充満したが、下の水には何も起きない。何か全部がシュールだった。私は立体バーチャルトイレに本当のうんちをしてしまったのだろうか?どうすれば異なる次元を繋いで、私のバーチャルなうんちがバーチャルな水流に流され、私のリアルなうんちがリアルな水流に流されるようにできるのだろう? 私の不体裁なガイジンうんこを便器の中に浮かべたまま、私は混乱の中にバスルームを後にした。後になってはじめて私は、「リアル」な水もタンクの中にあり、コントロールパネルの「バーチャルな」水流は恥ずかしい音をカバーするための音響効果にすぎないということを理解した。

 上記ブログの一部を適当に訳してみました。確かに今の日本にやってきた外国の方にとって、異文化体験としての日本は、お茶お花庭園寺院に日本料理…よりも「ウォシュレット」なのかもしれません。

 函館未来大学での二ヶ月のアーティストとしての滞在で、私は凍えるような木造家屋と、テラフォーミング(惑星地球化)の生物圏(ドーム)のように山肌に置かれた何にも喩えがたい超未来的な大学との間を行ったり来たりしていた。私は毎日の儀式として、図書館の脇にある大きなトイレを訪れ、その癒しの温水・冷水・温風の水流を何分か楽しむことにしていた(そう、私は「アナル」とビデの両方の設定を使っていたのだ)。それは日中にミニ銭湯につかるようなもので、私はその後でとても清潔でリフレッシュした気持ちが味わえたのである。私はこのデバイスを自分の家でも使えないものかと考えるようになっていた。

 というように、この方は「はまり」ました。そしてよくある話ですが、この異文化体験を日本という文脈の中で思想的に位置づけようとなさいます。

 実のところ、三つの日本のテクノロジーが私の頭の中で「文明的生活」から切り離せないものとなっていた:ウォシュレットのトイレ、電気ポット(いつでもお茶のための沸騰したお湯を使えるようにするサーモ・ケトル)、そして振動マッサージチェアである。これらのテクノロジーは、多数の日本の家庭では馴染みのものとして定着しているが、科学技術に特徴的な何かというより(日本名物のラブホテルや銭湯のように)身体の日本的な考え方(捉え方)の直接の結果なのだ。ウォシュレットは実際はスイスで発明された、しかしながらそれは消費財として日の目を見なかった。同様のテクノロジーはすべて西洋にもある。私たちが持っていないのは哲学的志向性、あるいはこれらのものが経済的に現実の商品として残り得る消費者の需要なのだ。この二つの欠落はつながったものである。私たちは日本的な身体に対する態度、もしくは清潔に関する態度を持たないため、その消費需要を持たないのだ。ウィキペディアが言うように「歴史的に、日本はたとえばヨーロッパなどよりはるかに高い衛生の基準をもっていた、そして排泄物の秩序だった処理が通常のことであった、一方ヨーロッパではその大陸のほとんどのかつての歴史において、下水汚物は単に道に撒かれるものでしかなかったのである」

 確かに日本に住んでいるネイティブにはない発想かと思います。面白くはありますが、ほんとかいな、という気がしないでもない「分析」ですね(笑)


 そして、このブログ主のiMomus氏がWater Therapy for Better HumansというWired Newsの記事を書き、それが銭湯とウォシュレットにみる日本の「ソフトパワー」という記事に訳された…ということなのでした。