はてなユーザーよ…(ネタ)

 内田樹氏が「日本人よ、身の程を知れ」とご提言なさった記事に対して、id:ululunさんがブクマのコメントで

 「日本人よ」を「はてなユーザよ」あたりに変えたテンプレ文を書きたいけれど、他の人に涙をのんで譲る事にしますww

ということを書かれていたので、「身の程を弁えず」に愚考してみました。


 「はてなユーザーよ、身の程を知れ」とご提言申し上げたい。
 「身の程を知る」とか「分際をわきまえる」とか「身の丈にあった望みを持つ」という謙抑の美徳はすでに忘れ去られて久しい。はてなユーザーにおいても全くそうである。
 はてなダイアラーの不満の多くは自己評価と第三者評価のあいだの「ずれ」、すなわちPV数の違いに気付くことによってもたらされる。
 同じダイアラーになったのだから、と最初はそう思ってしまう。とんでもないことである。半年ROMってからおもむろにおずおずと始めるべきなのである。始めたからと言って普通に「対等」でしょうと考えてしまう悲劇は私にもあった。
 右も左もわからずに、うろうろしているうちにkagamiさんにコメントを付けたりしていた。おこがましいことである。あとでびっくりした。またhazama-hazamaさんからコメントをいただいて、普通にコメントを返していた。あとで恥ずかしかった。さらにはkiya2014さんに激励のコメントを付けてしまった。あとであわてふためいた。ことほど左様に悲劇はそこらにころがっているのである。*1


 ブログにはひとつの「共通基盤」がある。それは「読者が多いブログの方が支持されている」という認識である。「PV数が多いものはそれが少ないものよりブログ社会への適応が進んだ人間である」と認めることが、すべからくブログを続ける意義につながるべきなのであり、それによってブログ社会の一元的比較考量が可能になるのである。
 もちろん「はてなダイアリー」にもこの考えが導入され「はてなブックマークが多くつけられたものはエライという価値観」に読み換えられた。


 そのネガティヴな結果について考えた人はいなかったのだろうか。きっといなかったのだろう。
 その結果、はてダは世界に類をみないほど均質的なネタの社会になってきている感がある。
 かつては性が違い、年齢が違い、地域が違い、職業が違い、社会的立場が違うひとは、それぞれ固有の記事を書いていた。それぞれの個人が、それぞれ固有の思考を持っている限り、そこに単一の度量衡をあてがって、「どちらがよりおもしろいか?」「どちらがより成功しているのか?」というようなことを問う人はいなかった。
 しかし、今は数百万人のはてなダイアラーを「ブックマークの数」だけを指標にして一元的に考量することが可能であると考える人々がマジョリティになった。
 そうやって、ひとびとは「身の程をわきまえる」という規範を失った。


 今、はてなダイアラーたちは「PV数を集めること。ブックマークを付けてもらうことがすべてのブロガーにとっての生きる目標である」と信じている。
 それがはてな的グローバリゼーションの帰結である。



 …というのはまあネタであるということでご寛恕いただきたいのですが、内田氏のおっしゃることには基本線では同意したい気持ちはあります。ただ以前から氏のお話を聞いていた者にとっては、

彼は他人と同じ行動をすることによってしか快楽を得ることができないのであるが、「他人と同じ行動をする」という当の事実が、そのつど彼が快楽を得ることを妨げるのである。
「他の人が欲しがるもの」を欲しがるというかたちでしか欲望を起動させることができないので、彼は物欲しげな顔になり、「他の人が欲しがるもの」はまさに当のその理由によって彼の手には入らないがゆえに、彼は構造的に恨めしげな顔になる。

 ここらの表現にはおやと思ってしまいます。「他の人が欲しがるものを欲する」というのは「欲望の基本的な構造」としていらしたのではないかと…。つまりそれは「日本人」とか「日本的グローバリゼーションの帰結」という文脈では語られていなかったのではないかと、それは本当に疑問に思うところです。

*1:コメントのやり取りに関しては本当だったりしますが、これはネタです。為念