一交而孕(南方)

 今、あまり名が知られているとは言い難いですが、かつて中山太郎という民俗学者がいました。中山は柳田國男のような口承派民俗学とは異なる道を行ったとされ、自分では「歴史的民俗学」(他からは若干揶揄的に「文献派民俗学」)と称されておりました。ジャーナリスト出身で個性が強く、主著に『日本巫女史』『日本婚姻史』『日本盲人史』などがあります。柳田國男より一つ若く(1876-1947)同世代ですが、柳田に師事しその恩恵を多少なりと受けた人です。ただ後に柳田には嫌われ、在世の頃に比べ現在の民俗学の分野でさほどの評価はされていないと伺っています。


 さてこの中山が柳田の怒りを買った原因の一つに、彼のこだわりのない性格(悪く言えば気の利かない大雑把さ)があるとされますが、その一つの事例が礫川全次氏の『土俗とイデオロギー批評社、で描かれています。
 1926年5月、南方熊楠の『南方随筆』という論文集が中山によって編まれますが、この跋文に中山は「私の知つてゐる南方熊楠氏」という小文を付します。
 この内容がプライバシー暴露で不躾であると柳田は怒り、その旨南方に手紙で知らせるのです。(『柳田・南方往復書簡集下』平凡社
 さてその中山の不躾な表現とは礫川氏によると以下のようなものでした

中山は、その跋文の中で、南方の結婚に触れ、次のように言う


 …氏は四十歳、妻女は二十八歳、共に初婚であつて然も共に童貞を保つてゐたのである。…更にy氏に宛てた書信の一節に/小生四十歳まで女を知らず、然るに妻を迎へしに一発にして姙む、男子を挙ぐ幼名を蟇六と名く、…/研究に秋夜を惜み、酒盃に春霄を愛した氏にとつては、実際女などにかまけて居られなかつたのであらう。


ここでいうy氏とは、言うまでもなく柳田のことである。すなわち中山は、柳田から参照を許された柳田宛南方書簡の中から、こういう夫婦間のプライバシーにかかわる内容を抜き出し、それを南方にも柳田にも断らず、暴露してしまったのである。柳田としては、南方に対する体面上、この中山の無神経さに激怒したはずである。
(礫川『土俗とイデオロギー』)


 柳田より南方への書簡

 御近状如何。御令息御病身のよし、御心痛と存じ候。/御著作追い追い刊成、悦ばしく存じ候。中山君跋文は少しも感心せぬものにて、ことにその中の小生の言というものは勝手放題の作りごとに候。小生いささかに与り知らず候。あまりのことと一応御断り申し置き候なり。/貴下御一読なされ候にや。


 しかし失礼な表現を気に病む柳田の手紙にも南方は悠然としたもので、自分はどのように書かれてもいいのだとその度量の広さを見せています。そして柳田が気にしているプライバシーの暴露についても、さらりと次のように学究らしい言葉で応えています。

 また、小生貴殿への書信に書きたる「一交而孕」の句を一発にてたちまち孕んだというようにかきなおされおり候が、「一交而孕」は仏書を少しく見しものは必ず知る通り、鳩摩羅炎が故事に有之。申すまでもなく、インドやアラビアには、婚礼すみて新夫婦は臥してその夜孕むを、その妻の平素の操行節制、身もちのよかりし徴験と致すことにて、このことを恥と致し候。…「一交而孕」をことのほか愛することは、和歌山などにも小生の幼時まではありたり。中山氏はずいぶん民俗学ことにかかることを念を入れしらべた人らしきに、「一交而孕」ぐらいの故意を知らぬは怪しむべし。

 このエピソードを聞いて、南方熊楠はすごい、と再認識いたしました。