他者理解の構図

 何も他者理解の構図と大上段に構えなくても、おおよそ他の人のことを考えるシンプルな思考は次のようなものでしょう。


「自分が自分自身のものとして考えている「内面の思考」と同様のものが他者にもあり、他者を理解するとはその他者の「内面の思考」をいかに的確に捉えて行くかということ」


 当たり前に見えるこの構図が、実は他者理解の困難さを引き起こすもとになっているのではないかと私は考えます。この構図の誤りは「自分の身体と思考との関係」と全く等価な関係が、「他者の身体」と「精神」(=思考)との間にあると考える」ところに存在します。


少なくとも自分の思考は自分にとって明らかなものです。また、自分の身体も自分の思考との関わりの中で(或は、というか実はそれ以前に)明らかなものとしてあります。そして、他者の身体もまた直接「知覚」できるものとして明らかなものと言えるでしょう。
 しかし、「他者の精神」はそういった自明性・直接性としては与えられていません。それこそテレパシーのような手段が存在しない限り、直接他者の精神にアプローチする方法は一切ないのです(言語は、むしろ私たちが絡め取られている存在であり、意のままに使える道具ではありません)。ですから、「他者の考えているもの」にはどうしても間接的にしかアプローチできませんし、そこにはどうしても「自己の投影」的な歪みが入ってしまうことになるのです。

   (自分の)思考 = (自分の)身体
                ‖ 
   (他者の)思考 ≠ (他者の)身体

 この図式では、直接的な他者の思考へのアクセスは有り得ないことがおわかりでしょう。(=は等号としてではなく、直接触れることができるという意味で用いています)


 これはまさに独我論的構図になります。「自我」というものを自明な出発点として考えれば、どうしても他者に至ることはできないのです。
 また、ここで単に「自我(自己)」を消せばよいという話にならないのも確かです。その「自己」の存在こそが、「(他なる自己としての)他者=他我」を認める契機とも成っているからです。


 それではどう考えるべきなのか…(続きます)