返事とも何ともつかないもの

 結局今回のlazarus_long氏とのやり取りで、自分が伝えようとしているものが不用意な書き方でいくらでも異なった解釈を取れるものなのだということはわかりました。この際問題の日記で渦中の人物の名前の入った一節を消そうかとも悩みましたが、その後の展開で説明はできているのではないかと、それはまだ考慮中です。(どなたでももしご意見があれば…)


 さて「共依存」ということで、よくよく考えて私がなぜここでこのカテゴリに対し「程度問題ではないんじゃないか」と主張したいのかですが、私は「同じなんだから」という共感の方向をここで採りたくないという気持ちなのです。


 議論や説明の場において、私たちはしばしば「同じなんだから」という言葉を用います。それはたとえば視点の変更とかカテゴライズのレベルの変更によって、あるものとの「垣根」を無効にし共感を促すやり方ではないかと思います。
 たとえば何か人に対して区別・差別があったとき、その差異を取り払うために「同じ人間なんだから」とか言うこと、何か悩みを抱えて他者を拒絶する人にあったとき「私にもあるよそういうこと」と言うようなことです。この共感を生み出す方向での語りかけは自分の学び(気付き)にもなりますし、対話においてはある意味強力な方法ではないかと思います。


 しかしこれをすべてに適用すべきかどうかには躊躇もあります。垣根を崩し、同じなんだと語りかける方向で「自分」にはプラスになっても「相手」にはプラスにならないこともあるんじゃないかと思えるのです。
 私は共依存を一つの精神状態とは思いますが、本人が自分で抜けることのできない疾病とまでは考えておりません。それゆえ、その状態にいる人には「気付き」の機会を提示できるなら提示する。それは共感ではなく、「あなたそれは違うよ」という区分の方向ではないかと…
 実はここまで明確に考えていたわけではなく、これはlazarus_longさんとのやり取りの中でいろいろ考えて顕在化したようなものなのでまだきちんとした論にはなっていませんが、そういうようなことが私の中にあって、共依存の芽が自分にあるとは思いつつも「程度問題」にしたくないという気持ちもあったと、そういうことだったのではないかと今になって思います。


 人と人の垣根を無くす方向が「かなりの場合」正解ではあると思います。でも「同じなんだよ」という言い方では通じない場合だってあるんだとも思います。
 たとえば相手に忠言するときとか(往々にしてそれは身勝手になりがちですが)、たとえば「違い」をそのままに許容しあおうとするときとか…
 

 これはまだ「気付き」の最初のあたりで、うまく言葉を紡げませんが、これを考えてみようと思わせていただいたということではlazarus_longさんに感謝したいと思いますし、一つ得をしたつもりでおります。