他者を代弁する

 「あなた(お前)にはこの気持ちはわからない」という台詞があります。当事者でなければわからない、ある意味類型化を拒絶するような体験は確かにあるものと思います。でも、これは拒絶の言葉でもあります。あるいはこの言葉で理解ができないと離れていく人も多いかもしれません。それでも時に人はこの言葉を使いたくなります。


 それはこの言葉が他者を拒絶しつつも、その壁を乗り越えて自分に近づいて欲しいという願いの表明であるからではないかと思います。
 通常なら乗り越え難い「視点の違い」を強調し、殊更「他者性」を意識させた上で、それでも「あなた(お前)」に(通常の)自分を乗り越えて、自分を変えて、「私」の目線を理解して欲しいという願いがどこかにあると感じるのです。ストレートな拒絶という場合もありましょうが、本当に「わかりっこない」と思う相手に本来この言葉は言うだけ無駄ですし。


 そのニュアンスがあるとすれば、この言葉はある意味甘えでもあります。しかし絶望的状況にいると自分を考えている人のこういう言葉は、なかなかに無視できない切実さも抱えていますから、人により、場合によってその言葉に応えようとする者がでるのは理解できることでしょう。


 他者の立場に身を寄せ、自分がその立場に近づいて「理解」に至るということ自体はむしろ自分本人にとって幸いなことであろうと思います。ですが、そこには往々にしてある種副作用も生じるのではないでしょうか。
 それは、自分にとって大きな出来事であったその他者への歩み寄りが何より大きなこととして自分に見えてしまう危険性であり、それゆえ「過剰な代弁者」となってしまうこと、そしてその立場に固着するあまり、他の立場の「他者」へ近づくことができなくなってしまうという危うさです。


 「他者を代弁する」という行為は、その他者の視点を自らのものとし自分の枠を広げることができたところから来るものかもしれません。だからそれ自体は意義あることでしょう。でもその思い入れはあくまで自分の「思い」を「入れた」ものであって、重なりつつもその他者の視点そのままでないことは言うまでもありません。
 また、その「思い入れ」を確固としたものにしたいという願いから、あるいは強い感情にあてられて、そこで得た視点(それは一つの角度からの一つの解釈・意味でしかないのですが)を意識しすぎ「過剰な代弁者」となってしまっては、ある「他者」に出会ってせっかく拡げられた自分が、それ以外の「他者」に対してわが身を閉じることにすらなりかねません。


 これは残念なことですし、自分が饒舌に「代弁」を始めた時、わが身を振り返ることが必要なのではないかと…

(今日はお仕事なので、とりあえずここまで)