内部あるいは壺中の天
内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば、内部といえるのだから、内部にあっては、任意の点を中心とすることができる。
人間はいかなる点も中心として立つことができるが、必ずそこに矛盾として実存する。ついでに言っておくが、境界もまた矛盾として全体概念を形づくるものであるから、全体概念をなすためには、必ず矛盾が孕まれねばならない。
(森敦『意味の変容』筑摩書房、1984)
一種奇書とも言っていいかもしれませんが、若いときの私に強く影響を与えたと思える『意味の変容』を、それこそ久しぶりに(軽く10年以上)開いてみました。未だに圧倒される思いがします。
もう会えぬと思っていたが、よくきてくれたね。
「そう言えばそうだな。ぼくもやっぱりそんな気がするんだ。戦争はすでに起こっている。みな別れたら、もう会えぬような気になってるんじゃないかな」
そうだな。
「しかし、大きな工場だね。こんなに大きいとは思わなかったよ。もうこれで終わりかと思ってると、また建物があり、その各階に無数の工員がいる…」
大きいというわけじゃないが、ここは謂わば壺中の天だからね。
「壺中の天? 成程なァ。まさに世界だ」
世界? おなじことだが、ぼくらは全体概念を形づくっていると呼んでいるんだよ。
そうだ。
任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。
内部+境界+外部で、全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。つまり壺中の天でも、まさに天だということさ。