教育の地方格差など

 受験競争とか学校間格差とかいうものを「人間の序列化」だと受け取り、より「平等」な状況を作ろうとした方々に悪意はなかったと(むしろ善意だった)とも思えるのですが、いかんせんそれは一つの理想に過ぎず、何より限られた地域の中で行われてしまったところに問題があったと私も考えます。
 うちの祖母の実家の当主は、財産を持ちそれに執着することが人の不幸の始まりであると信ずる某宗教に傾倒し結局家財をすべて手放してしまったそうですが、彼の心の中はいざ知らずその一方的な理想に巻き込まれた家族や、その宗教の外側からそれを見ていた祖母などは大いに嘆き悲しんだといいます。
 善意とか理想などで語られる行為が、何も良い結果をもたらすばかりではないということですね。そして財産を手放して楽になるとしても、少なくとも家族や親族を納得させて(入信させて?)、皆の同意が得られるような状況があればよかったのかもしれません。それはそれで怖い気もしますが…。


 学力のみの序列化はいけないということで始められた(?)いわゆる一芸入試というものでは、けん玉の技量が抜きん出ているとか、歌や演技などの芸能活動で有名であるとか、様々な特技で入学が認められました。しかしこれはこれで「何にどれくらい」秀でているかの判断が恣意的で、かえって不公平感を言う人もいます。最初にこれで有名になった亜細亜大学でももう一芸入試はやめていますし…


 ある科目に関する学力、というのもそれぞれ個性ではないかと思います。それは確かに「絶対的な意味」を持つものではないですし、「社会に出て役立つという尺度」で必ずしも量れないものかもしれません。でも人が好きになったり才能を発揮したりするほとんどすべての分野が、それぞれ絶対の意味を持つものではありません。たまたまなんです。で、たまたま親社会的であると「職業」とか「匠」、ちょっと違う筋だと「趣味」とか「オタク」。皆個性だと私には思えます。


 でも「学力」という個性は、今の社会において優遇されている?と見る方が多いためか、結構悪者にされます。かつて予備校などで教えていた私としては、それはそれで偏った見方じゃないかと感じるのですが。



 話を戻して「教育による格差」ということを考える時、それは暗黙裡に「(ほぼ)一律の(内容の)教育」というものを前提としていると考えます。そしてそれは、戦後間もない時期から学習指導要領が作られてきたにも拘わらず、未だに成立していると思えない人を多く残しているようです。


 私は極端なことを言えば、教える内容が基本的に一緒でも、教える人、教えられる人が異なれば「同じ教育」というものはないと思っています。そしてそこまで極端に考えないとしても、少なくとも入試における問題の程度は指導要領の範囲を逸脱しないように(国公立では)配慮されているはずですから、内容の基本が押さえられていれば最低限の平等性は確保されていると考えてもいます。


 ある私大で、日本史の問題に「昭和17年(1942)4月に、米太平洋艦隊のキング提督が提唱して行われた日本本土爆撃を率いた陸軍中佐の名前は何か」なんていう問いがあったそうですが、これは知っている方が珍しいような軍ヲタ質問です。こういう「悪問」で知識比べする大学は問題だと、予備校界では話題になったものです。


 結局ある程度の差というものは無くせないものですし、何とか個々人の受験生が自らを恃み、人事を尽くしてあとは運を天に任せるという感じでいいのではないかと思います。受験で命を取られるものはいないのですから。



 とはいえ、いろいろな制度の変更で振り回されるのは一方的に学生・生徒なんですよね。そこのところを考えないで「理想」を語ったり制度をいじったりする大人は、個人的には好きではありませんが絶対にいなくなるものでもありません。
 できれば若者にはしたたかにそこらへんを乗り越えてもらうしかないと、それを信じたいと、かつての若者は思うわけです。


 今日まで持ち越してしまった話ですが、また折に触れて考えるところを書きたいと考えています。