自己決定する「自己」

 何でもかんでもすべてが自己決定権に帰着するとはちっとも思っていないのですが、要所要所で結構この考え方を真っ当なものとしている自分がいます。おそらくそれは、今の自分の美意識に関わってくることなのかもしれません。


 ただ忘れてはいけないと思っているのは、この自己決定権があるとされる「自己」というものは近代の主体概念に由来する自己だということです。これは現行の社会(システム)の中では(たとえその自己がフィクショナルなものであったとしても)私たちは容易に建前として崩すべきものではないと考えます。民主主義であるとか市民社会であるとかいうシステムは、この自己決定権の存在にかかっているからです。


 しかし私個人が考える他者との関係性にまつわる「自己」のあり方は、決してこの独我論的自己に直につながるものではありません。むしろそれは、最初から他者との共通の世界を持つ(というより他者との間で作られた)コミュニケーション的主体でもあるわけで、「価値」は自分が決定するという建前ではどうにも説明のできない人々の心情を説明してくれるものです。


 「幸せ」って何だろうと考えた時、それはもちろん千人いれば千通りの幸せの形があろうと思うのですが、人は大抵の場合「どこかで聞いた幸せ」を自分の幸せとしてイメージしたりします。聞いたことのないユニークな幸せは、往々にして後から、たとえば「失ってから気付く」ものです。


 そして「人並みの幸せ」つまり「他者と同じレベルの幸せ」が得られないことにへこむこともしばしばでしょう。それは他者の価値観を無前提に受け入れたものであるにも拘わらず、まったくそこら辺には気付かぬままに「他者の幸せ(の外観)」を幸せ(一般)だと思い込むのです。
 こういうのはしばしば「集団主義的な社会」のものだとか「日本特有」のものだとか言われますが、それはあまりにも他を知らない言い方で、もし他者の幸せを自分の価値と違うと峻拒できる人ばかりいるなら、人間社会のほとんどからすでに妬みや嫉みは無くなってしまっているでしょう。


 逆に言えば、他者の幸せを自分のそれに持ってくることができるということが、曲がりなりにも「価値の共有」ができているということの証でもあります。それこそすべての人が偏屈な隠者という具合になってしまっていては、現在の社会はそもそも成り立っていないのですから。


 つまりそれは逃れられない業とも、人を社会的にまとめている仕組みともとれるような基底的な自己の在り方なのであって、それがコミュニケーション的主体というものなのです。功罪の両面あると思いますが、私たちはそこから一歩離れる手段も持ちます。それが「近代的自己」という建前です。
 だからこそ一概にその自己とか自己決定権などについて「偽者だ」と糾弾する気持ちにはなれない、というよりむしろ、その歴史的な「自己」の在り方にある種の潔さといいますか美意識を感じるんですね。