あたりまえのものとしての愛国心

 kechack氏@Sapporo Lifeで「単因論を排す」というなかなか面白い記事が書かれています。

 ○○問題は××がいけないからだ。△△さえ実行すれば問題は解決する。こういった言動を頻繁に行う人を行う人間や、そういう言動を鵜呑みにする人間は少なくないが、私の経験上こういった人間にロクな人間はいない。


 複雑化した現代において、一つの原因に集約する問題などほとんどなく、あったとしてもそういう問題はとっくに解決できるのに放置されているだけのケースが多い。


 単因論に惹かれる人間は、問題を矮小化して安心地帯に逃げ込み思考停止したい人か、解決法がわかっているのに解決する努力をしないでいつまでも原因は○○だと叫んでいる人、いずれにせよお馬鹿か怠け者である。

 冒頭のこの部分はまさに「おっしゃる通り」と思えます。問題を単純化したがる傾向は、往々にしてごまかしであるということですね。


 さてその次の段落から、この単因論批判の鉾先は「愛国心(教育)」に向けられます。「愛国心」を国民が取り戻せば様々な問題(ニート問題、治安の悪化、少子化、拝金主義、職業モラルの低下…)が解決するかのように考えて、ひたすら愛国心(教育)を求める人たちはこの「単因論」にはまっている…
 なかなか説得的なご意見です。
 しかし「愛国心(教育)」の推進―反対の綱引き自体、私には「単因論」対「単因論」の争いに見えるのも事実でして、ここで推進派が批判されるのと同様の論拠で反対派もまた批判されるべきではないかと思うのです。


 「愛国心(教育)」の推進に対して、それが実効的というのは思い込みだし放っておいてください、という立場の方がどれほどの割合いらっしゃるかはわかりませんが、私にはこの立場が反対派の中で多数とも思えません。声の大きさによるのかもしれませんが、「愛国心(教育)」反対の方々は愛国心教育は有害という立場に立っておられる方が多数なのではないでしょうか?


 つまり記事で書かれている戦前のやり方に倣おうとする誤り(≒戦前の美化)と同じだけ、戦前のすべてを否定する誤り(≒戦前は暗黒)がそこにあるのではないかと見えるのです。そして個人的感想ですが、戦前の美化ともとれる言辞が今出てきているのは、戦前の全否定に近いことを「正しい」とする風潮が、少なくとも言論界において最近まで主流であった反動ではないかとも思っています。
 言ってみれば、今まであった「単因論」のカウンターとして新たな「単因論」が出てきているのが現状なのではないでしょうか。シンプルで力強い「単因論」というものは、結局その反動でベクトルを逆にした「単因論」を生み出すものなのかなと、そう見えます。
 日の丸・君が代をヒステリックに排する動きがあったため、それを前面に押し出そうという動きがでてきたのではないでしょうか。 結局両者とも同じ穴の狢なのでは?


 私は、愛国心教育をすればすべてうまく行くとも思えませんし、また同時に愛国心教育をすれば戦争がまたやってくるという考え方にも与しません。
 土台、愛国心というものを何か特殊でイデオロギッシュなものと捉える見方自体、私には適当なものとは思えないのです。愛国心を持っていても他国を尊重できたり、友好に努めることができるのはむしろ当たり前で、国民国家が主流である現在の世界で「国際主義=インターナショナリズム」というものは、愛国心を持つ者どうしの連帯という意味なのですから。 それぞれの(偏狭な)愛国心を排し、一つの集団になろうという「コスモポリタニズム」の理想は、私には今現実的には見えません。


 また、kechackさんの記事の結語に近い部分、

 キリスト教社会やイスラム社会では、道徳や倫理の再構築に宗教の復興という意見が主流となる。しかし強い影響力を持つ宗教が存在しない日本では、これが愛国心にすり替わる。このすり替えは既に明治時代の富国強兵に利用されたものだ。日本ではキリスト教に匹敵するアイデンティティを構築するために天皇神道儒教などを綯いませにした人工的イデオロギーを創造したのである。宗教の影響力の弱い東アジアでは日本に似た傾向が見られる。

 というところにはやや同意しかねます。
 まず明治政府が近代国家を目指した時点で、先行する近代諸国家でキリスト教などの宗教イデオロギーを中心においていた国はありません。むしろそこには「脱神話化」という近代を成立させた潮流があり、「キリスト教に匹敵するアイデンティティー」というものを明治政府が得ようとしたというのは構図的に無理があります。
 ただ彼らが西洋文明・伝統・近代思潮というものを(よく知らなかったが故に)恐れ、思想的混乱を避けようと復古神道(という創造物)を以って国の精神にしようとし「国家神道」という仕組みを作ったのは事実でしょう。ですが、これは愛国心に直結するもの、もしくはそれを称揚するためのものとはやや言い難いと思います。
 むしろ愛国心の強調は、国民国家という近代のシステムが日本に浸透した後に幾度かの戦争を経て定着していったものですから、富国強兵のためにポリシーとして愛国心が作られたという認識は違うのではないかと思います。それは近代国家にキャッチアップすることによって生み出されたものであり、特殊日本的なものではないとも私は考えます。
 あと蛇足気味に申しますと「宗教の影響力の弱い東アジア」という言い方はかなり誤解を招くものです。東アジアが日・中・韓だとして、いずれの国も他国にひけを取らぬだけの宗教性はずっと保持していたはずです。ただ政治に強くコミットする宗教組織が(長く)存在することはなかったということは確かですが、キリスト教伝統、イスラム教伝統を除く他の国々ではほとんどが似たような具合だったと思いますし、とりたてて「東アジア」という枠で語るようなことではないのでは?


 話を戻しますと、私は「愛国心はだめだ・危険だ」というある種「単因論」をもとにした主張が「愛国心を取り戻せばうまくいく」という「単因論」を招いたのだと考えます。引かせていただいた記事の主旨にはかなり共感いたしますが、この反動としての「単因論」については、生み出す元となった逆向きの考え方と同時でなければ取り下げはすでに難しいと思いますし、結局のところ皆が「愛国心」を功罪ある当たり前のものとして捉えるようになり、それを否定する側・称揚する側の両方が自然に縮小していった時に、初めて「余計なこわばりのない」状況が実現するのではないでしょうか。