いきなり通人(つう)

 今ネットではgoogleのような非常に便利なものが出てきた所為か、みな過程を端折って(結果としての)情報を求めるようになってはいないでしょうか。もちろん検索の途中で引っかかってきたいろいろなノイズをそれ自体楽しめる余裕がある方は別。そういう余裕を持つことすら最初から頭になく、たとえばブログ記事は「最初の三秒で読むかどうか決めて」瞬間的に気に入らなかったらすぐに他を覗く、そういう風に言われることに(おそらく都市伝説の類でしょうが)何かリアリティーを感じてしまいます。


 そう思ってみるとこれはネットに限らず、しかも結構前から続いている風潮の一環のような恐ろしい気もして来ました。ちょうどバブルの時代のあたり、言葉を妙に平板に発音してギョーカイっぽく喋る風潮がでてきましたよね(おそらくは未だに続くものだと思いますが)。あれを私は「一億総半可通化現象」と呼んでいました。そしてそう呼んで自分は違うと思っていたのに、私の舌までその風潮に結構侵蝕されていたりして、まあ何といいますか社会的影響は侮れないです。


 半可通は通人ぶる人のことを言います。そして通人は言ってみれば筋金入りのヲタク。暇と金を懸けて、長いことその道に関わることで「素人さん」とはちょっと違った知識と態度を手に入れた人です。粋は身を食うを地でいって初めて通人になるのだったはずですが、今はそう「知識の集約」やら「共同化」、言い方を変えればインテリジェント・システムとかマニュアル化といったもので、通人の奥義が(少しずつ・限定的になら)簡単に一般の人にも手が届くようになっているという次第。


 言葉を通人ぶるぐらいならまだ罪がない方ですが、知識全般において「通人ぶる」傾向が蔓延するとなると、これは従前の「教育」が成り立たなくなるんじゃないかと、それは真剣に心配なところです。
 もちろん今までの「教育」やら「学問」やらがすべて完璧だったとかいう話じゃないです。非合理なところも多々あったとは思います。教え方にしても職人気質というか「名人芸」があるうちは、なかなか多数の子供がそういったすばらしい教育には与れなかったことでしょう。それがある種の知の集約によって平準化されるのは歓迎すべきことです。
 ただ、そういった風潮に子供たちが勘違いしてしまうのです。たとえば学習塾。ここでは要点が噛み砕いて教えられ、ちょっと気の利いた子ならすぐに学習の半可通になってしまえるでしょう。で、そういう中途半端に目端の利いた子が、勉強だの何だのは「勘所」を教えてもらえばそれでいいんだと思ってしまうのは危ないです。
 その勘所が本当に「正しい」勘所だとわかるのは、逆説的にですが「余計な(いらない)過程」を通り抜けてきてからだと思うんですね。それをただ便利なものとして「ハウツーもの」っぽく享受してきただけの学生は、何が正しいかについての一家言が持てないわけです。で、今度は「何が正しい勘所か」のハウツーをどこかから探してくる…そういうメタに逃げる動きは必ずどこかで詰まります。


 たとえば文科系の院生で、何がなんだかわからない洋書を、見通しも教えてくれないままに読ませられることなんかありますよね。少なくとも「とにかく読め」という要求はかつての私には悪しき徒弟制度の名残のように思われたものです。読んだ人が最初に思想史的意味とか筆者の著作群の中での位置づけとか、そういったものを明らかにした上で読ませるべきだと。今でもそれは要求されて然るべきと思うんですが、それでもそういったわけのわからない無駄というものが、結構それはそれで意味があったんじゃないかとも思えてきたんです。
 講読のような授業で、一年かけてやっとみんなで50ページぐらいしか読めずに、それじゃまた来年読みましょうみたいなものに何の意味があるんだろうと思っていた私ですが、実はそういったものも、その思想家の主張や原文の抜粋(訳)を検索サイトでさっと探して頭に入れることでは落としてしまう何かを、ちょっとだけではあっても私の血肉に残してくれているなあと気付く時もあるんです。


 これが何だか合理的にも効率的にも見えないのが難でして、説明も曖昧なものになってしまうんですが、すぐに結果が欲しい、結論が欲しい、情報をよこせという態度に対して、どこまでも応じるのは結局その人のためにならないところがあるんだなあと、何となく言ってみたいお年頃になって参りました(私は)。


 学習塾や予備校で糊口を凌いでいた私ですが、そちらの効率性がわかるだけに逆に言いたいところもあります。つまり塾や予備校だけで「教育」はできないんだと。そういうことです。