オウム信者=日本国民という極論は…

 泉あい氏のGripBlogにおいて、ことのはの松永氏を招いた長文のインタビュー記事がありました。真剣に読ませていただきましたが、松永氏の現在の心境について必ずしもよくわかった、腑に落ちたという感じは得られませんでした。そしてそれ以前に、インタビューに同席した(というよりある意味中心的インタビュアー役を務めた)R30氏の議論の持って行き方にかなり違和感を感じました。それは、オウム真理教と信者の問題を戦争を起した日本と現日本国民との関係になぞらえた部分に集中しています。
 R30氏のそうした発言は、ほとんど「松永英明さんへインタビュー ⑤」の記事にあります。このことから、私はインタビュー中に思いついた一つの比喩が勝手に広がったものとの印象を受けますが、それがそうした思いつきだったとしてもあまりにも軽すぎる議論ではないかと思うのです。


 最初に申しますと、極論としてはその比較をする方がおられるぐらいには理解しています。本当にいろいろなところを捨象すれば、旧悪?について文句を言われる集団があり、その集団の構成員に「反省の色がない」と批判する他の集団がいて、当該の集団の構成員はその批判に応えていないと言われている…。そういったフォルムが一応の類似を感じさせるということはわかります。
 しかしそこで「いろいろ捨象した」ものの方に議論の骨格や本質的なところが含まれているとしたら、R30氏の譬えは単なる思い付きの域を越えるものではありません。そして私にはまさにそれはそのぐらいのものに見えるのです。
 それがR30氏自身のブログ

 今回のインタビューを終えてみた僕自身の結論は、「松永氏は普通の日本人と同じぐらいにguilty」というものだった。

 この問題に簡単に結論を付けることなどできない。なぜならそれは、松永氏だけの問題でも、アーレフ信者と被害者との問題でもなく、おそらく日本人全員の問題だからだ。自分自身の過去の反省をうやむやにしてきた我々日本人自身が背負っている十字架を見ずにオウムを罵倒する人は、まさに自分を嘲っているのと同じである。

 というように「巻き込み型」の、君もぼくも無関係じゃないんだ的総括に値するものとは少なくとも思えません。


 オウム真理教Wiki)という宗教団体(教団)は国家ではありませんでした。今の社会制度の中でそれは目的を同じくする者の集まり、一つの機能集団に過ぎなかったのです。それが東京都に認可された宗教法人であったことからもそれは明らかです。オウム自体がその組織の中で省庁制に擬したグループを作っても、また日本という国家に帰属しないような意識を持っていたとしても、実際のところそれは存続のために外部世界を必要とした一つの小集団に過ぎなかったのです。
 その意味でまず、戦争当時日本人として日本と言う国家に属していた人間と事件当時オウム真理教に属していた人間とを直接比較することに疑問があります。またこれは、戦争が終ってからも日本人でいたという立場と、事件を起してからも機能集団であるオウム信者であったという立場を同一視するという大きな無理もしてしまっていますし、なにより事件当時メンバーでありまたその後も構成員だった人と、終戦時には未成年であったか生れてもいなかった大多数の私たちとを力技で「同じ」としている間違った議論に見えます。
 さらに言えば国として敗戦を受け入れ、占領され、周辺諸国講和条約を結び、認められて国際社会に復帰している日本という国と、教祖が罪を認めたわけでも何でもなく、教団中枢が犯罪者として裁かれ、それでも教祖が作った教義に拘ってメンバーが残る集団と、責任等の意味でも似通っているとはなかなか思えません。


 私は、犯罪者として裁かれなかったオウムのメンバーを犯罪者扱いするのにはむしろ批判的な気持ちがあります。そういう点からは、当時生れてもいなかった今の日本人に「道義的責任」とやらを突きつけ、際限のない反省を迫っている一部集団と、オウム信者だったからというだけで彼らの基本的人権を蔑ろにするような人々の行動には若干の類似を見る立場ではあるのです。
 それでも、当事者性を「感じない」とする松永氏の言葉を理解し、むしろそれに共感する形で「私たちも同じ」とは思わないですね。私の認識の中ではそれは異なる立場です。


 オウム真理教の当時の構成員が、自分たち(と言いますかむしろ自分)と世界の在り方に直接の関係を感じていたということは想像できます。その中間にあるはずの(日本という国を含む)様々なレベル・集団に大した意味をおいていなかったのではないかとも思います。松永氏が「世界観」というキータームで、ごく自然にご自分の正当化をなさっているところからもそれは感じられるところ。
 この意味でオウム真理教はまさにセカイ系であったのでしょう(ある意味内省的な宗教としては当然に見えるかもしれません)。しかし、一つの物語の中で完結することのない現実世界は、常に身勝手なセカイ系をそのまま許すことはありません。可能性としてはオウム真理教が長く続き、その様々なしがらみの中で中間の世界に深くコミットして、政治的あるいは経済的、文化的等々の意味で実世界に紐帯を持つということはあったかもしれません。そういう意味で世俗と関わった「普通の」教団になることもあり得たのです。時を重ねれば。
 しかし決定的なところで、決定的な仕方で、その方向は選ばれませんでした。それは今となっては至難の業かと。


 私は、今の松永氏の気持ちに関心はありますが、どうしても知らねばという気持ちまではありません。ですから、それについては何か提示していただけるなら読む気は十分あるのですが、そうでなければ他の元信者・現信者と同様、悪いことさえしないならばほっといてあげればいいと思います。
 でもそれにしても、R30氏のように考えて彼らに寄り添い、自分の反省も込めて問題を捉えるという気には全くなれないのです。氏がどうお考えでもそれについて「やめろ」などとは申せませんが、もしそれが単なる思い付きであるならば、どうかもう一度ご再考を、というぐらいの声は発したいと考えております。