教育基本法改正案

 改正案28日閣議提出決定 教育基本法で事務次官会議

 政府は27日昼の事務次官会議で、教育基本法改正案を28日の閣議に提出することを決めた。政府は28日の閣議で同改正案を決定し、今国会に提出する。1947年に制定された同法は初の改正に向け動きだす。
 改正案は与党の教育基本法改正協議会が13日に決めた案を踏まえ、前文と18条で構成。(以下略)
共同通信

 教育基本法改正案が明日閣議決定され、国会に提出される運びになりました。その改正案(こちら→与党の教育基本法改正案・全文)を読ませていただきました。


 平成17年1月13日、読売新聞が「教育基本法改正案原案の要旨」と称するものをスクープしましたが、これについては文部科学省が「教育基本法の改正に関する一部新聞報道について」という文書を出して「現時点では政府原案なるものは存在しない」と否定しました。それは「与党教育基本法改正に関する協議会」の平成16年6月の「中間報告を一部改変して要約したもの」だったようです。
 しかしこの読売報道で伝えられた「要旨」に「国を愛」するという表現が見られたところから、「愛国心の強要」といった反発が起きたように思います。そして報道等によりますと、公明党などの反対により「愛国心」という表現は結局『教育の目標』の部分に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と表現されているということですね。


 反対意見のいくつかを拾ってみますと、やはり「愛国心の押し付け」というものに対する危惧に終始するようにも見えます。

南日本新聞 4/23
「与党案は愛国心や公共心を上から押し付けるもの。学校で物言えぬ雰囲気になるのではないか。憲法や教基法は本来、権力の行き過ぎを監視する民主主義の手立てであるはず」九州東海大学の山下雅彦教授(教育学)
愛国心を強要されないか不安。公共心も強調され過ぎていて子供の個性をそぐのでは」小学生の娘を持つ霧島市隼人町の主婦(37)
「与党案には国による教育統制の意図が見える。今改正しなければならない理由もない」「教育基本法の改悪をとめよう! 鹿児島県民ネット」の岩元昭雄代表(73)


高知新聞社説 4/14
 どういう表現であれ、「愛国心」を法律に書き込めば、強制力を伴って心の領域にまで踏み込み、内心の自由を侵すことにつながりかねない。その危うさは日の丸・君が代にみることができる


沖縄タイムス社説 2003.5/7
 河村建夫文部科学相は「国を愛する心を持つことを目標にした学習指導要領に法的根拠を与えることができる」と、その狙いを強調する。つまり、小中学校の道徳や社会科の学習指導要領で先取りしている「国を愛する心」を持つとの目標を法的に裏付けたいのである。


 しかし、それは「憲法(第一九条)が保障する思想、良心の自由の侵害につながる」と、有識者らは批判し反対している。それぞれの立場や思想があるのに「愛国心」を学校で評価するよう求められ、結局、押し付けになるからだ。


 「法律は行為の在り方を定めるが、心の在り方を決めるものではない。子どもたちの内心の自由への介入だ」(高教組・松田寛委員長)との指摘も当を得ている。


 ただ一つ申しますと、自由主義の原則は自己決定の権利をもつ大人と、その権利をもたない子供の厳格な権利上の区別を前提にしています。ですから「自己決定の権利」は子供には与えられておりません。子供は保護し指導する対象でありますし、判断能力を無差別に認めることは自由主義社会の原則を却って成り立たせなくするものでもあります。(その点からすれば、上記危惧の言葉のかなりは錯誤であるといえるでしょう)
 むしろ「教育」は本来強制性を持つものです。すべての強制がいけないとなりますと、おそらく現在の学校教育というものは成り立たなくなってしまうでしょう。この点ははっきり認識すべきだと考えます。


 さてそこで問題は子供に対する強制云々ではなく「国を愛する」という目標を設定することの是非になってきますね。これについては「愛さなくていい」と正面切って論じられる方はほとんどおられないものと思います。


 それにです、日本人は何故か遵法心が高くて、法律に書かれたことは守らなければならないと(つまり強制されていると)思う人の率が他国に比べて相当高いそうです。これはもちろん美点だと思いますが、法律がそこに書き込まれたからと言ってそれだけで従わせるのは本当は無理なのです。罰則等の強制力がなければ、単に法律は空文化するだけでしょう。また、この教育基本法に従来も教育の目的として「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期」すということが書かれていましたが、それが書かれているだけで、この目的は十全に果たされていたでしょうか? 私にはどこまでそれがうまくいっていたかは判断しかねますが、少なくともこの理想に反する人間も多く生み出されてきたということは確かだと思えます。
 ですから、結局今度の改正にしても「お題目が変わる」だけではないかと、そういうシニカルな見方もできるわけです。
 いま一度この改正案の全文を読まれて、本当にこの文言に替わるだけで子供たちの未来や教育の現状が悪くなると判断できるものか、冷静に一人一人が考える時ではないかと愚考します。(私自身は、改正案に関する賛否のご意見を伺っても判断がつきかねていたというのが正直なところですが、この改正案を一読した限りでは、積極的に反対すべき明確な理由は見つけられないという感想です)


 法案を出してきた者の考えている黒いこととか、法案に反対する者の考えているたくらみとか、そういう邪推はこの際一度止めにしましょう。それはやっても切りがないことですし、何より争いの種、今まで多くの確執を生み出してきたもとです。
 そうではなくて、子供たちにこの法案のような教育が施されることに賛成か否か、今考えるべきはそのことだと思います。その上で、真剣に危惧を抱かれるようでしたら、是非それをお聞かせいただきたいです。私が浅はかで考えもつかないことも大いにあり得ますから…。