哲学や美学の講師が言いそうなこと

 id:antonianさんのところでここ数日、著作権問題に端を発した芸術とかアカデミズムなどの話題があり、トラックバックやコメントでいろいろな意見が寄せられています。


 ギリシア語のtechneの訳語としてラテン語のarsがあり、さらにそれがart(英・仏)やarte(伊・西)になっていったように、またcan(英)に相当する助動詞konnenと同源のKunst(独)が技術的能力という意味を多分に持つように、かなりざっくり言えばアートは技術であり、「芸術」はその広義の「創造性を持つ技術・応用」という意味の一部です。
 しかしこの技術という括りの中から「美的価値」に関わるものを分節化しようという動きが近代において顕著になり、18世紀あたりの「美学」の成立のあたりで、それはfine arts(英)beaux arts(仏)schone Kunste(独)など「素晴らしい(美しい)技術」という語によって切り分けられていきました。そして19世紀に至り、fineだのbeauだのという形容詞を外したartという語自体がその「美に関わる技術」を意味するようにもなり、その概念を輸入した日本で、それに「藝術」という訳語があてられたという経緯があります。


 つまりart⊃芸術ということであって、むしろ20世紀以降にartの意味が再び問い直され意味内容を拡げていく活動がなされていった時に、「芸術」という語で意味を固定してしまっていた日本がその美術史的機運に乗り遅れがちであったというのは仕方がなかったかなとも思えます。
 そしてその「芸術」の語が美学によって規定されるものであったというまさにそこらへんで、antonianさんがおっしゃるようにそれは「コムズなモノとして認識される」運命を背負っていたのでしょう。


 またラテン語のarsは自由人の修めるべき七科(trivium:文法・論理・修辞とqudrivium:算術・幾何・天文・音楽)の技芸を表す言葉でもあり、これは現在のliberal artsにつながってくるわけです。(ちなみに文学修士はM.A.=Master of Artsですね)
 そして奇しくも「藝」という語はもともと周代以降、士大夫の身に付けるべき必修項目とされた六つの学職・才能・技術、すなわち「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」を表すものでした(六芸<りくげい>)。これらは士の徳性を高める「技術」だったのです。
 こういうところからもarsやら芸(術)やらが、もとからアカデミズムと言いますかある程度選ばれた人たちの技芸と認識されていたという背景がわかります。


 芸術・技術というものが所有されるとすれば、それは本来作者・技術者のものでしかありません。しかし芸術・技術というものは他の人に何かを伝え、あるいは役に立つことで価値を持つものでもありますので、その意味ではある種「分有」とでもいうことが可能なのだと思います。
 たとえば技術の恩恵を受ける、芸術にふれ得るという層は現代において飛躍的に増えています。私たちが芸術・技術というものとどう関わるか、それをどう分有するかについては再び問い直すべき時ではないかと考えます。


 美術品を個人が所有するというのは、確かに財産としてのモノの所有でもあります。しかし自分の財産だからといってそれを好き勝手に毀損することはできません。法的には問題がないとしても、壊した瞬間にそれは多くの人に「分有」された何ものかも失わせてしまうからです。こういう意味で、著作権とか知的財産とか所有とかの面をartについて再考すべきなのではないでしょうか。