呪(しゅ)

 夢枕獏陰陽師』は、安倍晴明源博雅を主人公とした連作短編のシリーズです。文春文庫版だけでも現在七冊を数えます。この二人ののんびりした掛け合いの雰囲気や、さまざまな怪異が人間の物語として解かれていくようなところが好きで、出るたびに購入する本の一つです。
 もちろんここに登場する晴明は式神もつかいますし、方術で妖異に対抗する力を持っています。そういう超常的な力が説明なしに当たり前のものとして出てくるという点では、いわゆるファンタジーの系統でもあるわけですが、ここに「呪」という独特な考え方が挟まれ、これらの話が私たちの人生にもどこかつながって見えてくるのです。


 「呪(しゅ)」とは何か。最初の話ではこう語られます。

「そうだな、たとえば、呪とは、名ではないかというようなことだ」

「この世で一番短い呪とは、名だ」

「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」

「ものの根本的な在様を縛るというのは、名だぞ」

「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人だが、おぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる―」

「眼に見えぬものがる。その眼に見えぬものさえ、名という呪で縛ることができる」
「ほう」
「男が女を愛しいと想う。女が男を愛しいと想う。その気持ちに名をつけて呪(しば)れば恋―」


 この連作に出てくる「呪」という言葉をどう解釈するかについては諸説あるとは思います。私の受け取り方では、これは「人の思考のあり方」であり、「人が世界を認識し、それに関わる際の制限」でもあります。それはどうしようもない基底的なあり方として人を縛り、またそれがあるからこそ人はこの世界を生きていけるという(恩恵としての)能力でもあると思うのです。


 この「呪」の理法を認識することがこの物語世界での真の力であると言えます。方術や式神はいってみれば小道具に過ぎません。そしてその「呪」の在り方、「呪」に縛られた人間の在り方が、まさに私たちのこの世界と通じているからこそ、これは人間の物語として受け取られるのです。

教育基本法に絡めて

 「国を愛する」という呪に強く縛られている人たちがいます。それはこの語を強く批判的に考える人にも、この語を至極大事に思う人にもどちらにもいるように見受けられます。この呪にかからずにいる者からみると、なぜこの語がそれほどの力をもっていると思われるのか不思議ではあるのですが、呪にかかった人はどんどん自分の中でこの呪を大きくし、それに囚われていきます。
「まことに不思議なものだなあ、晴明よ…」
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芸術などに絡めて

 antonianさんが「教会の美」というエントリーで

 …教会美術は酷い。酷すぎる。かつてはアカデミーの肩代わりをしていた教会は視覚伝達の重要性をそれなりには知っていたわけだが、いまや死滅しつつある。

 とお嘆きですが、教会美術に権威性という呪を感じた方々が(これは時代に影響された感覚かもしれませんが)、その対抗手段として反権威という方向に走ったんじゃないかと思います。でもそれは「権威―反権威」というリニアな価値観の中での右往左往にすぎませんから、その意味では呪を逃れたことにはならないのです。
 たとえばそこに「権威か否か」という判断(としての呪)が入ってきてしまうと、それ以外の面が捨象された思考が形成されるということがあります。他の見方がいくらでもできるのに、そこに縛り付けられてしまうんですね。
 かつてよく聞かれました、「この考え方をしなければ真面目ではない」とかいう呪に染まった言い方。生真面目なのは別にいいのですが、一つの考え方だけを正統なものとし、傍に眼がいかない余裕がない生き方というものは私はもうたくさんだと思っています。


 美術・芸術に関しては、それが権威だと思わなければ「理解しなくてはならないという強迫観念」からも自由ですし「理解出来ないものの存在否定」に走る理由もないわけで、どうもその呪だけは解いておいた方がいいように思います。むしろそれがあるから素直に美しいもの、素晴らしいものを味わうことができないという傾向があることははっきりしているでしょう。antonianさんは裏に激しい希求を隠した「コンプレックス」ではないかとおっしゃるのですが、私もこれには同意します。
 あまり大して頭が働きませんので、これをantonianさんにいただいたトラックバックへのお返事(の代わり)とさせていただきます。