宗教が避けられてしまう理由

 私たちが「宗教(集団)」に抱くイメージが、別のルールに則って生きている人たちというものであることに、宗教が避けられて(嫌われて?)しまう一つの理由があると思います。

 ついでに訊いておこう。
「なあ、谷口。お前、超能力を使えるか?」
「あーん?」
 マヌケ面が第二段階に進行する。ナンパに成功した美少女がアブナイ宗教の勧誘員だったと知ったときのような顔をして、谷口は、
「……そうか。お前はとうとう涼宮の毒に浸されてしまいつつあるんだな……。短い間だったが、お前はいい奴だった。あんまり近づかないでくれ。涼宮が移る」
 (谷川流涼宮ハルヒの憂鬱角川スニーカー文庫、p.254)

 ここで谷口君の表情に使われる比喩を考えてみましょう。
 ある男性がナンパに出ます。女の子に声を掛けます。ちょっとつきあってもいいような反応を得ます。どこかでお茶でも飲んで、これからどうしようとか話そうということになります。 これはすべて彼が頭の中で描いているルール通りの進展です(断られたり無視されたとしてもそうです)。ところが座って話し始めた瞬間、女の子が
「神様っていると思う?」
 とか
「奇跡って信じる?」
 とか、目をきらきらさせながら尋ねてきて、「実は…」ということで何らかの宗教団体の勧誘を始めたとしたら、それはまさに「サッカーをやってたつもりだったのに、相手は鎖帷子を身に着けて手裏剣を投げてきた」とか「卓球の試合だったはずなのに、総合格闘技ルールでサドンデス」とかいうものに感じるかもしれません。あるいは「テニスをしていたら、相手が冷蔵庫を開けて食材を探して料理を始めた」ぐらいの懸隔がそこに感じられる場合もあるでしょう。


 自分の知っている世界で、自分が慣れているルールで相手に対するのでない限り、必ずそこに緊張が生れます。知っているだけのルールで、最初に試合うときの緊張を考えてみてください。それはもうストレスと言っていいかもしれません。 そして、そのストレスを跳ね除けてまで「異質な(と思える)」ルールで対峙しようという気構えがない以上、結局「オレ、ちょっと用事があるから」ぐらいで逃げてしまうのが普通なのではないかと思います。それは決して責められるものではありません。


 でも。敢えて「でも」と申しますが、大なり小なり少しずつルールの違う相手を「他者」と呼ぶのであり、自分と隣人が「同じルールで生きているんだろう」と多寡を括り、そこから外れた(ように見える)人を避けて生きるだけの生き方は、おそらく大して失わない代わりに大して何も得ないものでしかないと考えます。


 また、「宗教」と聞いてそこまで異質さを感じてしまうというのは、やはり私たちの日常の中から宗教性が減少し、信心深いお祖母ちゃんやお母さんがいなくなり、新宗教絡みの勧誘の人が突出して見えてしまうという、そういう情けない状況があるのだと思ってしまいます。
 ちょっとこの国を離れたところでは、まだまだ世俗と宗教が入り混じったあり方の国などいくらでもありますし、少し前の日本だってそうだったのですけど…。