責任の外在化

 所属学会の名簿がWinny流出したという噂ですが、まだサイトでも告知されていませんし知り合いの中でも話題にはなっていないようです。いったいどこで出たものでしょう。普通の会員は印刷データしか持たないはずですので、名簿のデジタルデータの所在などきわめて限定されるはずですが…。


 さて例のペルー人、ホセ・マヌエル・トーレス・ヤギ被告(34)の公判が開かれています。ちらっと映像で「私は無実」と声をあげる被告の姿も見ましたが、どこをどう考えると無実という発想が出てくるのでしょう。あるいは母国に向けて、少しでも日本による不当逮捕と思って欲しいという苦し紛れの印象操作なのでしょうか。
 ヤギ被告、殺意を否認 広島女児殺害事件初公判


 続いて弁護側も冒頭陳述をした。犯行時の状況について「女児が話しかけていたときに、突然被告の頭の中に『殺せ、殺せ』という声が響き、自分の意思で身体をコントロールできなくなった」と主張。さらに、「女児の口や首付近に手を置いただけで、首は絞めていない」と述べ、殺意はなかったとした。わいせつ目的も「幼児性愛者ではない」と否定した。


 そのうえで、被告は「悪魔の声」で是非善悪を判断して行動する能力が全くない心神喪失状態か、著しく低下した心神耗弱状態だったとした。弁護団は4月下旬に精神鑑定を請求している。(後略)
asahi.com 2006年05月15日22時47分)


 悪魔が囁いたから犯罪を犯した、という言い方は究極の責任の外在化だと思います。殺したのも、わいせつ行為をしたのも自分ではあるが同時に自分ではなく、自分は操り人形のように動いただけ、という責任の逃れ方にどのくらいの意味があるでしょう。もちろんこうして逮捕され、拘留されながら自分の犯行を振り返ると、それはあまりにも「自分」というセルフ・イメージからかけ離れたものだと思ってしまうこともあろうかとは思います。「魔がさした」ように感じられるのですね。でも、それはたとえ実感ではあっても、自分自身に対する言い訳ということでしかないです。
 弁護側が精神鑑定を要求しているそうですが、「病気」ならばそれは外在因であって本人の責任はかなりの部分が免ぜられるとする発想は、こうした犯罪における責任のあり方、一般の人の責任の感じ方を相当大きく損なっているのではないかといつも危惧しています。


 たとえば名簿の流出に関して、それを意図的に行う者などほとんど考えられないわけですが、そこに意志がなかったからある程度免責、とはならないでしょう。結果責任で、不注意や無用心が責められるはずです。起こした行為・結果で責任を取るという発想が基本になくなってくるのは、社会におけるモラルの低下を顕著に招くのではないかと心配なのです。
 司法が、人の意志を奪って悪の行為をさせる「悪魔」を認定することはあり得ないのですが(もしそれが認められれば、罪と罰に対する根本的な仕組みの崩壊になるでしょうから)、もし弁護側がお定まりの「精神疾患等による免責」をまたぞろ持ち出してくるならば、判決はどうあれ、また何かおかしな茶番を見せられている気になるかもしれません。
 被告にとって、責任を外在化させて寛大な判決を勝ち取ることが、本当にその利益になるのか。また社会的な利益はどこまで考慮されるべきか。そして被害者感情への配慮は、どのくらい許容されるか。いずれも大きな問題ですし、少なくとも弁護側がそれらを真剣に考えてみるよう願いたいものです。