この子の七つのお祝いに

 かつての日本の人々は、子供というものをどう捉えていたのでしょう。今とあまり変わりはないだろうと、親子の情だって変わらないし、学校のかわりには寺子屋があったし、とにかく遊びたがるのが子供の本然だし…と、するのも一つの考え方ではあるでしょう。でもたとえば、「大きくなったら何になるの?」という言葉は子供に決して掛けられなかったであろうことなどを考えてみれば、それは決して今と同じでは有り得ないとも考えられます。


 もちろん民俗学の分野でもこの子供観というものに無自覚ではなかったでしょうが、まとめて正面から論じたものは意外に少ないように感じます(私が不勉強なのが原因かも)。取り敢えず私が読んだことのある本の中から、宮田登氏の『老人と子供の民俗学』(白水社、1996)における関連する内容を一部ご紹介します。

 「七歳までは神の子」という諺は、全国的に流布している。これと対で「七つから大人の葬式をするもの」という諺もある。「七歳未満忌服なし」という表現も、同様の心情によるものだろう。七歳にならぬ者は、喪の忌みには関係がないとされる。浄・不浄の対象にならないのである。
 柳田国男は、六つ以下の子供が死んだ場合、特別の埋葬地が設けられたことに注目している(『先祖の話』一九四六年)。それは児三昧、子墓とよばれており、大人とは異なった葬法であった。たとえば家の床下や、雨落ちの下に埋めることがあった。その本意は、子供の死により、体内に宿っていた霊魂が貴重な「若葉の魂」となり、ふたたび蘇生しやすいように配慮することにあった。小児は、いつでも霊界から帰すことのできる存在と考えられていたのである。青森県の東部一帯では、かつて小児の埋葬には魚を持たせたという。また家によっては
紫色の着物を着せて、口にごまめをくわえさせたともいう。こうした習俗について柳田国男は、生臭物をわざわざ使って仏教の支配を防ごうとしたものであり、「七歳までは神の子」という表現と関連するものと推察している(『家閑談』一九四六年)。つまり、大人の死者儀礼は仏教の管轄となっているが、六歳か七歳以前は、魂の再生をはかるため、魂が自由自在に動ける神の領域に置かれるべきだということで、その背後には、神道や仏教といった体系のなかに入らない民俗信仰が存在しているというわけである。
 七歳までの小児の生身魂は身体を離脱しやすいので、魂を身体に鎮めて離れさせまいとする呪法が、七歳までの通過儀礼には一貫していると考えられており、その場合、仏教の影響下に入ることは好ましくないという配慮があって、「七歳までは神の子」と主張されることになったのである。
(七歳までは神の子)

 ここらの記述は、柳田國男の着想の紹介とそれに乗った形での考察です。文中に出てくる柳田の二つの著作は、ともに筑摩書房が出している『柳田國男全集15』に収録されています。


 今の日本の教育は、子供は本来無垢で純真なものという性善説がベースになっているのではないかと折に触れ考えさせられますが、その度に頭に浮かんできたのはこの「七歳までは神の子」という言い方でした。そして躾けなければ子供は小さな獣、というような性悪説ベース教育の欧米社会からやってきた、E.S.モースの見た「子供の天国としての日本」(cf.『日本その日その日』東洋文庫)のことも脳裏をよぎります。


 ある時期まで子供の性善説はとても有効であったのでしょう。ただ自分の子供時代をつらつら振り返ってみたり、決して幸福とも断定できないような昨今の子供の状況を見ますと、どこかで何らかの齟齬が生じたもののようにも思われます。すでに子供は神の子ではいられなくなっているのに、そう扱われてしまう状況は決して望ましいものではないのかもしれないです。

 生まれたばかりの赤児とか、幼児とかは、性をはっきりさせない状態で処遇されていた。一般に幼児とよばれているこの状態がどこまで続くのか。幼児の段階に対して、幼い子供のなかには生きた霊魂がいっぱいこもっているという考え方が、出産から子供の成育の間に常に付きまとう産神への信仰からも想像される。産神と特別の関係をもった幼児、これは稚児と呼んだりするが、あるいは赤子といった言葉とか、ネンネといった言葉のなかに、幼児に対する観念の仕方があるのだろう。一般に、幼児はだいたい六歳までではないかと言う。「七歳まで
は神のうち」という意味がそこにはある。
 (中略)
 七つになって氏神にお参りに行くのは、氏子入りによって初めてその存在を認める社会的な儀式と考えられたのである。
 (中略)
 氏神は、社会的に一人前になった人間を守護する地域の土地神であり、それに挨拶をしないと具合が悪いということで、七つまでは産神の支配下にあるが、七歳以上になると、氏神様の方へ宮参りに行く。出産後三十二日とか三十三日の期間は母親と子供がともにケガレていると考えられた。その期間が終わると氏神にお参りにいく。これを忌み明けと言っていた。忌み明けでは、半分は氏神様に存在を認めてもらおうというので、わざわざ神社の前で赤子を泣かせたり、脅かしたりした。泣かさないと氏神様に通じないというマジカルな考え方があった
。そういう宮参りを経て、実質上、氏神に対し、氏子入りという形で認めさせるのが七歳のお祝いというわけである。


 たとえば、七件乞食とか、七件雑炊という習俗がある。七つになった子供が氏神参りをすませてから親に連れられてあちこちから物もらいをして歩く。物をもらうのは子供にとって一つの特技である。もらうのが当然であって、相手からもらって自分のなかの活力を増していくという考え方がある。
 (中略)
 つまり、今までは産神の支配下にいた子供が氏神支配下に入って行き、地域住民の住人になったから、それまで与えられた霊的な力は弱まる。だから、今度はさきに生きている大人たちが子供に新しい力を付け加える必要がある。そこで、七歳の危険な時期を通過するときに氏神と大人たちからたくさんのプレゼントをもらうということが通過儀礼としてあったわけである。
 (七歳以下の子供)

 かつて人間の生は生れてから死ぬまでをリニアに流れていくものではありませんでした。要所要所で生の質的転換を要求する通過儀礼があり、それをくぐりぬけると新しい名前、新しい生がそこから始まるようなそういう仕組みがあったのです。
 この通過儀礼は社会が支えるものでもありました。それは決して個人的な体験などではなかったのです。そうした儀礼のはじめのものの一つがこの「七つの祝い」だったのでしょう。そして「神の子」であることをやめ、地域社会の側に立つようになった子供は、ここで子供組などに参加し、社会性を身につけていくことになっていたんですね。


 今の日本社会では、何と言っても子供の社会性の獲得の場面で「地域社会」というものの参与が少なくなり、それは学校に専一に任され、あとは蛸壺のようなニューファミリー枠しか無くなってきているのではないでしょうか? 家族というのも、かつてはもっと開かれたものであったように思われますし、これは従前の子供観をいろいろ考え直さねばならないところだと感じます。
(※ちょっと中途半端なところですが、今日明日と少し仕事が忙しいのでここまでにしておきます)