十三まいり

 京福電鉄に乗って嵐山の駅で降り、渡月橋を渡って嵐山を少し登った中腹に法輪寺というお寺さんがあります。虚空蔵菩薩を御本尊とし、江戸時代から十三まいり(まゐり)で有名だったところです(→法輪寺のサイト)。

  難波より十三まゐり十三里 もらひにのほる智恵もさまざま


 春先に嵐山に行くと白地に大きな文字の「十三まいり」の看板が立てられているのを目にするのですが、最初に伺ったときは何これ?という感じでした。私が生まれ育った地方には十三参りの風習がなかった(あるいは残っていなかった)からです。
 聞いてみれば「数え年十三歳に成長した男女の成人儀礼」ということで、七つの祝いの次あたりに位置する通過儀礼として古来あったものでした。そしてさらに言えば成女式としての位置づけがあったもののようです。十三参りに通じる十三祝いというものが民俗学の方では研究されておりまして、先日ご紹介した宮田登氏の『老人と子供の民俗学』(白水社、1996)よりちょっと引きます。

 「お月さまいくつ、十三、七つ、まだ、年は若いな」という童唄は、江戸時代の『嬉遊笑覧』のなかに取り上げられ、何か訳のわからないわらべ歌がはやっているという書き方で紹介されている。…民俗学の分野から言うと、通過儀礼のなかで十三と七つは日本の民俗社会で特に強調された年齢である。この歌はまた「のんの様」という、月に対して呼び掛ける歌であった。「のんの様」つまり月に対する子供のイメージのなかで、なぜ自分の年を十三、七つと言ったのか、まだ年が若いくせに子供を産んでという歌をうたうのかというと、これはいわゆる「月」という女性特有の生理の問題とかかわってくることが考えられる。
 どうして十三と七つという数字にこだわるのだろうか。日本人はやたら数字にこだわる習性がある。無理に十三にしなくてもいいのに、”十三祝い”ということを強調する。十三歳という言い方が、なぜ出てくるのか。この”十三祝い”という行事は現在も残っている。これは初潮がこの時期に集中していた時代の考え方である。つまりお月さまと自分の月経とを一致させるという女性の潜在的な意識の表明ではなかろうかと思われる。


 さて「十三、七つ」という言い方の十三歳というのは要するに成女式にあたる。これは女の子の場合で、成女式にはいろいろな儀礼が伴っている。振袖を着ることを装うと表現するが、これは変身するという意味である。つまり、子供から大人になったことを十三という年齢で集約的に表現しようとする。特に、振袖を着るのは本裁の衣装を着るということであり、帯を締めて一人前の大人の姿になるということである。以前は腰巻を贈られたり、かねを付けたりした。一人前の女だというのでおはぐろもつけた。沖縄では文身(いれずみ)をする習俗が報告されている。そのときに厄落しをするのが”十三祝い”で、要するに大人として一人前になる儀礼である。したがって「お月さまいくつ」の歌には、子供を産むことができるという内容が込められている。 
 (強調は引用者)

 今の法輪寺では男女の区別なく十三まいりの参詣・ご祈祷をしてくださっているようですが、それこそ京都の地元の方々の話をちょっと聞くと、やはり女の子の晴れの儀式として考えられているようでした。着物をしてお参りをし、そして帰りは「智恵を落とさないよう、振り向かないで渡月橋を渡って帰る」という慣わしがあったそうです。


 江戸の半ば以降、関東で七五三の行事がはやったのに対抗して上方ではこの十三まいりが盛んになったという説もあります。町中での町人衆の慣わしとしてはそういうこともあったかもしれませんが、もっと広く民間で七つのお参りも十三祝いも昔からあったと考えてよいようです。
 さまざまな日本民話の「運命譚」(ある年齢になると死んでしまう云々というのが予言されて…というような話)に出てくる「定めの歳」でも、七つあるいは十三というのは非常に重要な意味を持つ数字(年齢)とされており、いろいろなヴァリアントの話には必ずと言っていいほど七歳、十三歳のバージョンが存在していたりします。運命譚では、この年齢で水死するとか斧で命を落としてしまうとかそういった類の予言がされ、それを智恵で逃れる結末と結局運命として死んでしまう結末のどちらも見られるものですが、要するにそこで「それまでの子供は死ぬ」という暗示がなされ、ある意味別の人格の人間として生まれなおすことが暗喩されているのです。昔話の運命譚の存在は、こういうイニシエーショナルな儀礼が七歳や十三歳を区切りとして日本各地の社会に存在したということを傍証するものであると考えられます。