子猫を殺すこと

 生命倫理アポリアの多くは「線引き問題」と言ってよいと考えています。どこからどこまでをどうカテゴライズするか、そしてその基準に何を用い説得的な議論をするか、その当否が単純に決められないのが難題なのです。これには「線引き」がアプリオリなものでない(後付けということにもなりましょうか…)ということが以って関わることだと思います。


 おととい以来、某作家が子猫を殺しているという記事が話題になっています(最初に知ったサイト)。この方は、避妊(去勢)が飼い猫のに対する干渉として耐え難く思い、産む度に子猫を殺すという選択をしているとおっしゃっている方です(この記述自体のフィクション性は解りませんし、ここでは問いません)。
 犬を飼い、かつ避妊させていた人間として、この話は胸に突き刺さってくるところを持ちます。一概にこの方の行動を責めるということも、し難いとさえ思われます。苦慮した上での結論だと思います(というか思いたいです)し…。


 これが人間の話であれば「人格基準」を持ち出すまでもなくこの方の行為は殺人にあたりますし、避妊をさせるのが可哀想だからと、勝手にセックスさせ、子を産ませ、生まれた子を殺す、という行為は許し難いものと見えるでしょう。
 しかし対象はここで人間外の動物です。これが問題を複雑にしています。なぜなら人間は他の生物の例に漏れず、生きるために他の生物を殺し、あるいは喰らうことを基本的に必要とする存在だからです。この意味では他の動物を殺すことを単純に悪と断じるわけにはいきません。


 殺していい動物と殺してはいけない動物の線引きに、たとえば「知能」という基準が持ち出される場合があります。捕鯨反対の運動などはその典型ですが、これに対しても結局どの程度の知能で線引きをするかという点については恣意性を免れませんし、この基準が照らし返す人間の価値の問題として、「知能」がその優劣を決める基準になりかねない(精神障害を持つ人間の価値は低いか、という問題など)という反論もあります。また、実際に計量的な知能の多寡の弁別はできるのかという疑問も根強くあります(最近では「イルカよりネズミや金魚の方がまだ賢い」なんていう記事もありました)。


 現在の生命倫理学的議論の中では、この線引きを考える際に「苦痛の感受性」というものが盛んに言われております。以前にも引きましたが(過去日記)、人間の人間という種中心の考えさえも「種主義・種による差別(Speciesism)」として批判する倫理学者、ピーター・シンガーの言葉を挙げます*1

 ちなみに,人種的平等への要求の論理が人間の平等にとどまらないことをべンサムははっきりと意識していた。彼は次のように書いている。

 暴君以外に誰も抑圧することのできなかった権利を,人間以外の動物たちが獲得しうるときが来るかもしれない。肌が黒いことを理由にして,1人の人間が加害者の気まぐれに任せられているのを座視することはできない,ということがフランス人にはすでに分かっている。人間以外の,感覚を持つ動物についても,足の数,体表面の毛,仙骨の末端を理由にして,そういう被害にあうことを座視できないとされるときが来るかもしれない。越え難い一線をきめているものとして,ほかに何があるのか。理性的能力か,それとも,ひょっとして言語能力なのか。しかし,生後1日,1週間,さらには生後1カ月の幼児と比べても,大人の馬や犬の方が比較にならないほど会話の相手がつとまるだけでなく,理性的でもある。だが,馬や犬がそういうものでないとしても,そんなことが何の役に立つのか。問題は「推論を行えるのか」でも「話せるのか」でもなく,「苦しむことがあるのか」なのである。

 確かに,べンサムが言っていることは正しい。ある生物が苦しむとしたら,その苦しみを考慮に入れずに,他の生物における似たような苦しみ(といっても,おおまかな比較ができるとしての話だが)と平等に扱わないとすれば,それを道徳的に正当化するのは不可能である。


 そこで,唯一の問題は,人間以外の動物も苦しむかどうかということである。大抵の人がためらうことなしに同意するのは,犬や猫のたぐいの動物が苦しむことはありうるし,実際に苦しんでいるということである。この種の動物に対する悪質な虐待を禁止する法律によっても,このことは当然と考えられている。個人的には,このことに全く疑いの余地はないと私は思うし,一部の人が公然と投げかける疑いの念に,まじめにお付き合いするのは無理だと思う。



 すると,ほかの哺乳類や鳥類が苦しんでいるとわれわれが思う根拠は,他の人間が苦しんでいると思うのと,きわめて類似している。考えるべき問題として残っているのは,進化の段階をどれほど下ったところまで,この類比が成り立つのかということである。人間から遠ざかれば類似性が弱まっていくのは明らかである。もっと正確にするには,他の生物のあり方について詳しい調査が必要である。魚類,爬虫類やその他の脊椎動物なら類似性は強いが,牡蠣などの軟体動物になると類似性がはるかに弱くなる。昆虫ならさらに困難になり,現在わかっている範囲では,昆虫が苦しみうるのかどうか知りえないと言うべきであろう。

 実は生命倫理で議論される人間の「人格」概念においても、意識と並んでこの「苦痛を感じる能力」の有無が定義に加えられてきております。言ってみればこの面での人格概念の延長・拡大によって、動物を殺すことの道義性・道徳性が問われているという面もあるのです。


 そして最後にはやはりこの基準を援用した「線引き」の問題がきます。上記引用でもあるように、それは苦痛を感じている(ように見える)かどうかという所で問われるもので、この基準を援用するならば、

 子猫を殺す > 生まれる前の胎児の猫を殺す > ゴキブリを殺す

 という「罪深さの軽重」は当然現れると考えてよいかと思います。
 議論や考察は続けられるべきですが、これにしても決定的な解答を導く切り札になるかどうかについて(私は)悲観的に見ています。 やはり一番の問題は、私たちはまず殺してしまっている、殺してしまいながら考えているというところにあるのかなとも感じます。そして後付けでそこに引かれる線は、あるいは自己弁護であり、正当化であり、どこかに必ず恣意性を見出だしてしまうような「弱い線」でしかないところが、議論を延々と続けさせてしまう原因ではないかと思うのです。


 最初に挙げた某作家氏の例では、母猫を避妊させる罪と子猫を殺す罪の比較というものが主題であると私には受け取れました。これは単に殺せる動物と殺してはいけない動物の線引きをするよりも複雑なところがあります。
 人によっては、愛玩動物の避妊なり去勢なりになぜ罪を感じるのかピンとこない方もいらっしゃるでしょう。これは、実際に避妊させるべきかどうかを悩み、決断し、そしてどうにも罪悪感を消しきれなかったような人にのみクリティカルなものなのかもしれません。子猫殺しと同じ次元ではないものを、それでも倫理的な比較の対象にして考えるという、考えてしまうというそのある種混同が、私にはわかるような気がしてしまいます。あの議論は間違っているなあとは思いますし、批判もされて然るべきとも見えます。ただ私には、それを簡単には批難できないとも感じられてしまうんですね…。

*1:『バイオエシックスの基礎 欧米の「生命倫理」論』、H.T.エンゲルハート、H.ヨナス他、加藤尚武・飯田亘之編、東海大学出版会、1988、pp.205-220。より抜粋