愛とか友情とか

 独り言のようなものなんですが、結局「愛」とか「友情」とかそれはもう文化的なものですから私たちは学ばなければわからないんだと思います。「愛」と名付け「友情」と名付けた概念、それは言葉になった時点で私たちを縛り、逆に縛られてこそそこで経験できるというものなのでしょう。
(自分がその中にいる「文化」を相対的に(というより外側から)見るなどということが本当にできるのでしょうか? その「文化」によって自分が作られているというのに…)


 かなり昔に「愛」と「恋」の違いを英語で説明するのに往生したことがありました。本当に自分でそれを知っているのかわからなくなってしまいました。ただ何となく、他の人の用法なり文学なり創作物なり日記なりでそれとなくわかったように思っているだけ、というのが実際のことかもしれません。でも、たとえ辞書的な定義はなくとも「あい」も「こい」も現代日本語で、そして私が今の日本に生きている以上、それはどのような形でも私に届かない語ではないと思います。
 それがどのような自分なりの理解の仕方であったとしても、それはそれで一つの筋です。もしかしたらその自分の理解が他者に影響を及ぼし、いささかなりとも「共通理解」が変容するかもしれません。その点では自信を持って良いと思います。ただそれ以上の自信は…


 男女間の友情。これも「ある」という人がいて、その「在り方」を自分が見せられて納得したらありでしょうし、結局自分の中だけで結論が見出せるものではありません。これは愛だって同じで、たとえばおそらくかなり幼少期の私たちにはゲイもストレートもなく、その人に対する心の動きがあるだけなんでしょうが、それがいろいろ成長(といいますか文化受容)の過程において「これは恋であってはいけないんだ」とか「友情」あるいは「愛情」とかいうように分節され、それを受け入れていくようになるんだと思います。


 もちろんそういう周囲の文化規範を裏切って、自分なりの好意の在り方を見出さざるを得ない人は出てくるでしょうし、それは時にはかなり手酷いしっぺ返しとなってその人を傷つけるかもしれません。ただ、そこに「ゲイ」の文化なり「衆道」の文化なり、自分だけじゃないところに開かれたそういう規範があってくれれば、その人はそれで偏見を持たれることがあるにしても、自分の拠り所を手に入れることができるという意味である程度「救われる」んじゃないかと思います。
 逆に言えば、たとえば同性愛やらフェティシズムやらというものが全く個人的なものだったとすれば、その人はその自分の感情を言語化することさえもできず、全く暗がりの中で悩むしかないということになるはずです。


 私たちはかなり文化に縛りを受けています。しかしそれは、その縛りの中にいるからこそ享受できる多くのものを持った縛りだと思います。もしその縛りから解けても、もしかしたらそこにあるのは虚無だけなのかもしれません。その縛りの向こうに別の縛りを見つけるぐらいしか、私たちの自由はないと考えるのはいやなことでしょうか? でもそれがあるいは本当のことなのかもしれないなと、そう考えています。


 それにしても、「愛」と「恋」の違いって何なんでしょうね。

 夏祭り すくえぬこいのせつなさや (めぞん一刻